切り傷は鋭いのに夏の暑さに茹って腐った傷口はいつだってじわじわと侵食してくる。内出血の境界は曖昧で、いつできたのかすらもわからない。
自分を傷つけられるようになって心身が麻痺していく感覚が伝わった。そうしていつか、他人を傷つけても心が痛まないようになるのが恐ろしかった。
他人を傷つけるくらいなら、自分も傷つけないのが一番いいに決まっている。
それは、僕ができる精一杯の保身だった。
春先にもなるというのに、僕はまだ分厚いコートを着ている。「ずっと温度の管理された部屋の中にいるから寒がりなんだ」とか他人は言うけど、これでも僕は毎日外を散歩しているから、無駄に寒がっているだなんて思わない。
服をたくさん着ているときはべつに暑くも寒くもないけど、体が汗ばんでいることはわかる。自分の温度感覚が人よりすこし変わっている自覚はあったけれど、寒くて体が動かないよりは少し汗ばんでいるくらいの方が安全で安心だったから、そうしていた。
夏になる前に桜の散る様を見ておきたかった。
その日は薄い空色のうつくしな晴天で、平日の昼下がりだった。ふだんの散歩道から逸れて、少し遠いところにある桜並木を歩いていた。彼女とすれ違ったのはそのときだ。
視界にちらついたのは、黒い髪、極彩色の輝き、夕暮れ、虹。
穏やかに微笑みながらスマートフォンで桜を撮影する制服の少女はあまりにも普通の女の子で、どうしてそれが僕の目に留まったのか、自分でもわからない。
目の前には白にも見える桜色が広がっていたはずで、彼女が着ていたのは近所の公立高校の白い制服なのに、僕が彼女から感じたのは極彩色だった。
ただ人とすれ違っただけで極彩色を感じたことに僕は驚いてしまったけど、ただそれだけだった。
彼女が写真を撮っている様子を見たことで僕はやっと「散る間際の桜を見る」という目的を思い出して、僕もスマートフォンを取り出した。
満開、というか散り始めの桜は薄く色づいていて、カメラアプリに写した桜はズームアップで目の前に広がった。見上げるように撮った桜の花は太陽の光を受けてほとんどが影になっていて、肉眼で見るよりもどこかぼんやりとした印象だ。
カシャ。ミュートできない、大きなシャッター音が響いた。
音に気がついた彼女が振り返る。
(あ、盗撮)
していない。していないけど、真っ先に盗撮という単語が頭をよぎった。
女子高生がカメラのシャッター音に対して敏感なのは当たり前だ。この醜悪な世間は、誰もが簡単に加害者になるし、被害者になる。無意識の差別とか、区別とか、強そうとか弱そうとか、生まれ持った性別とか。だから、彼女が簡単に被害者になることは想像がついてしまって、僕はそんな相手に不用意なことをしてしまった。そう思った。
僕は恐る恐る両手を差し出して、視線を泳がせる。できるだけ害意がないことを伝えなければいけない。
長い桜並木なのに、わざわざ近くでカメラを出す必要なかったじゃんか。悪いことしたな、盗撮したと思われたかな、そんなに豪胆な加害者じゃないんだけど、僕。
腹の奥が渦巻くように動いて、交感神経がギュッと昂る感覚がする。
「あ、の……桜、撮ってたんですけど、一応アルバム確認しますか」
「うん?」
けど、彼女の反応は思っていたのと違った。僕の言葉にほんのちょっと驚いて、それから僕を安心させるように微笑んだ。
「こっちに幹から生えてるお花があるから、あかるい写真が撮れると思いますよ」
僕が「え」とか「あ」とか意味のない言葉を言っているうちに彼女はその場所を空けてくれて、僕は導かれるままにそこで写真を撮った。
少し低い位置から伸びた枝についた桜は画面に収まる。横から差し込んだ光が花弁を透かしていて、なんだかよかった。
いつも見る桜の写真よりはずっと美しくて、それでもやっぱりくっきりと見える影は本物よりもごちゃついて見える、どうして本物と写真は違うのだろう。
「ありがとうございます」
お礼を言うと彼女は嬉しそうに笑う。
「あの、それじゃ」
「ええ、さようなら」
僕はすぐにその場を離れてしまったけど、彼女は何かを思い出すようにあの桜並木の中に佇んだままだった。
すれ違った青年が、夏の花の名前を叫んでいた。「葵」。彼女の名前、だろうか。だったら、春に出会ったのは不思議な話だ。
彼女は地元の公立高校の制服を着ていた。垢抜けなくて平凡な黒髪に、暗い色の瞳。嗅いだのは消毒液の匂い。それにしては穏やかな微笑み。
けど見えた色は、 (極彩色のひとだ)
彼女の瞳は、自分が持っている絵の具を全部かき混ぜたような色をしていた。
そのことが僕の心をどこか安心させる。混沌が、そこにあっても許されるような気がして。
神様は土から人間を作ったというけれど。
土塊から人間を作れたら、神様になれるんだろうか。
僕は神様になりたかった。
懺悔室の中で告解される神様の気持ちについて、僕はよく知らない。
僕は誰も、許せそうにない。
それでも、僕は神様になりたかった。
あれから、三ヶ月が経った。あの不思議な少女と出会ってからも、はっきり言って僕の生きづらさは変わらない。僕はいつも通り昼に起きて、夕暮れどきに散歩する。朝に起きる方が涼しいんだろうなあとも思っている。
夏は、春と同じかそれ以上に花が多かった。
近所の花屋ではアマリリスの球根から直接花が生えていておかしかったし(バスケットに入った球根のまま立派に花を咲かせていた。へんな花だ)、毎日手入れされている剣道家の庭ではいまだにハナミズキの花が咲いている。晩春に咲きはじめてたと思うんだけど、ちょっと花の時期が長すぎやしないだろうか? うちのはすぐに枯れたのに、どうしてだか一軒離れただけのその庭ではずっと咲いている。
春先の彼女に出会ったときの、あんな簡単なやり取りで僕は花から目をはなせなくなってしまっていた。駄洒落じゃなく。ほんとうに。
けれども僕という人間は、ただ花を見ているだけで死にたくなってくる。路傍の雑草ですら花をつけるほど生活中にたくさんの花に囲まれているのに、けっこう僕は気がついていないらしい。
花はびっくりするほど急に咲いて、数日で萎んでしまう。あと夕暮れ時も、結構萎んでいる。「ずっと咲いとけよ」と思ったりもする。その方が心が和らぐので。
あの春の日の一瞬、あの時の一瞬、彼女の微笑みが綻んだ時、僕は許されてしまった。
そして、それまでの僕がいかに「許されていなかった」のか、思い至ってしまった。
僕は簡単に加害妄想に及ぶけど、そうなるには相応の理由があった。それって、ずっと許されていなかったってことじゃない? 僕は自分がどれだけ抑圧されていたのか思いを馳せて、果てしない悲しみと、絶望と、怒りと、とにかくマイナスな感情の何もかもを咀嚼した。
偶然にも僕はものをつくる人だったから、そういう怒りは人にも自分にも向けずに作品として昇華することにした。
僕は人形作家という仕事をしていた。粘土を使って少女や少年に似たものを造形する、ちょっと変わった職業だった。
苦しみを作品にするために制作を続けていたある日、衝撃的な事態が僕を襲った。僕の部屋に、一人の少女が現れた。
黒い髪、混沌の瞳、消毒液の匂い、血の匂い。怪我、しているのかな。
「……なにをしているんですか?」
「お花見、かな」
「いや、あなたが見ているのは僕のつくった人形たちですよ」とは言い返せず。僕は結局「はあ」としか言えなかった。
——こんな怪奇現象には遭ったことがない!
僕は極めて平々凡々な人間だ。人より少し繊細で、コミュニケーションが苦手で、多少神経質であることを加味しても、少なくとも超常現象とは別の世界で生きている。
作品がみずからの意思を持って動き出すだなんて。それはあまりにも予想外の出来事だ。
目の前にいる作品から「それ」を見出してしまったことは、正直認め難い事実だけれども、僕はその句を口にした。
「……のびきって 夏至に逢ふたる 葵かな」
「うん?」
「葵さんとお呼びしても、いいですか」
「いいよ」
会話した。できてしまった。二度も。
そして、彼女から許されてしまった。名前を呼ぶことを。
彼女は正岡子規の句を知らないらしい。本物の、彼女も知らなかっただろうか。そんなことを考えてしまう。これは良くないことだ。
混乱していたなりに、理解したことが一つだけある。
僕は作り上げてしまったのだ。彼女を。
流石に裸で居させるわけにも、僕の服を着せるわけにもいかない。
すこしばかり恥ずかしい気持ちで、なんというか居場所がないというか申し訳ない気持ちで、僕は女の子向けの服屋さんに入った。
苦労して、僕はワンピースを手に入れた。
店員は色々言っていたけど、僕にはレベルが高すぎて何を言っているのかいまいちわからない。とにかく種類が多すぎて、もうわけがわからなくなりそうだったので。
食事代とか、お洋服代とか、困ったように言われたけど、何も持たない子を街中に放り出すわけにはいかない。流石にそんなのは僕の麻痺しつつあった倫理観でも気が咎める(そもそも「仮称:葵さん」が人間ではないことには、目を瞑るとして)。
だから、家に泊めるのだって当たり前だ。そもそも、僕の手で、僕の家で生み出された時点でここが彼女の生まれた家なのだから。
「葵さん」がどういう認識でいるのかはさておき、僕には彼女を作った責任があった。
最近の彼女は、僕の家で放置されていた植木鉢を寄せ集めて、劣悪な環境の中で生き残った植物たちの世話をしてくれる。
その植物たちはほっといても生えてくるようなものばかりで、「手入れのいらない精鋭たちだよ」と言ったが、葵さんは笑ってその言葉を聞き遂げるのみで結局手入れをしてくれた。
ツツジとか無限に伸びてくるじゃん。
しかし彼女によれば、枝を小さく整えたり、枯れた葉を取り除いたりなどの手入れがあるというのだ。どうやら、花の世話は好きらしい。
「あのお花屋さん、緑の紫陽花が置いてあるんだね」
話に出たのはくすんだ色や茶色っぽい花の多い、ちょっと変な花屋の話だった。
「ちょっと渋いやつでしたか? ていうか、近所の?」
「渋いかはわからないけど、うん。紫陽花のおおきいところは萼だから、葉脈かな? そこが差し色みたいになってた」
大人になってからは前を通り過ぎるばかりで立ち寄らなくなった花屋のことを、彼女は気に入ってくれたみたいだ。だから僕は嬉しくなって、少しだけそれにちなんだ話を持ちかけた。
「……葵さん、植物のグリーンネックレスって知ってます?」
「緑のまあるい葉っぱが付いてるやつだね」
幼稚園児の頃、店主になんの花が好きかと聞いたら、そこの店主は熱心にグリーンネックレスの紹介をしてくれたのをよく覚えている。
「あれって、花、じゃないですよね?」
「よく知られてる部分は葉っぱだと思うよ」
色鮮やかな花や一見奇妙な花が答えられることを想像していた僕は呆気に取られた上に、ピンと来なかった。お花屋さんの好きな花を聞いて、まさかヘンテコな葉っぱを答えられるだなんて、幼稚園児の自分は想像もしていなかったのだ。
当時から、思っていたことがある。
「あれ、グリーンピースに似てません?」
「ふふ」
彼女は、あの時のお花屋さんと同じ笑い方をした。
『夏は夜』とか聞くけど、夜がギリギリ人間が生活し得るっていうだけで、夜以外はクソってだけなんじゃないの、清少納言。平安時代は違ったのかな。
僕のメンタルは豆腐みたいにぷるぷるだ。豆腐みたいに温めても冷やしても美味しいならまだ救いがあるけれど、夏の僕は豆腐みたいに美味しくもない。
夏は雨が降るし、雨の後はよく冷えて、晴れ、茹だるほどに暑い。クーラーの設定温度を下げると、今度は救いようもないほど寒くなる。けど消すと命の危険が増す。……っていうか、暑くったって僕の深部体温はキンキンに冷えている。
僕の体は相変わらず温度に対して不感症だった。
「お水とタオルケット、持ってきたよ」
「……はっ、何考えてたっけ、ぼく」
「ゆっくりね、ゆっくり」
「あぁ、えっと、……あり、ありがとうございます」
「どういたしまして」
水と防寒具を持ってきてくれた葵さんに、僕は発話に難儀しながらお礼を言った。実際の発音は「あり……ざいます」みたいになってた気もするけど、彼女は待ってくれていた。
葵さんはよく、コミュニケーション不良な僕を待ってくれる。
話が途中で別の方向に飛んでいってしまう僕の話をにこにこと聞いてくれた。彼女が少し心配になるけど、僕の話を遮らずに聞いてくれる相手は少なくて、僕は彼女に甘えてしまう。
お前はついに狂ったんじゃないかとか、自分で作った作品に対して何を言っているのかとか、思うかもしれないけれど。
待ってくれるというのは、僕にとって救いだった。
涼しくなってきたら、マクドナルドを買ってその辺の公園でピクニックしたい。
粘土をいじくり回しながら言った僕の世迷言を、彼女は覚えているらしかった。
その辺の公園というのも難しい話だったから、駅の近くでショッピングモールと公園がある場所を探した。近くに博物館があるみたいだよと嬉しそうに笑う葵さんは相変わらず僕の目の前で生きていて、動き続けている。
来るその日はしっかりと晴れていた。
彼女は濃紺のワンピースを着ていて、僕は用心してまた分厚い上着を出していた。日差しは夏と変わらず暑いままだけど、風が吹くと少し肌寒い感じがする。
隣を歩く葵さんが花柄のエコバッグを抱えて、中のポテトの匂いを嗅いでいた。
「お弁当作っても良かったんだよ」
「それに捉われないのが簡易ピクニックなんですよ」
簡単なのがいいんですよと言うと、葵さんはそんなものかなと首を傾げた。レジャーシートを持ってきているから、それを知っている葵さんは中途半端な本格志向を不思議に思っているのかもしれない。
「わたし、ちょっとお花摘んでくるね」
「荷物見てます。貸して」
「ありがとう」
葵さんが公園近くの博物館に入っていくのを見届けて、僕はいそいそとレジャーシートを広げて、借り受けた日傘を置く。
そういえば葵さんは、レジャーシートの上に食品が入った紙袋を直置きしてもいい派だろうか? わからないからエコバッグの中に入れたままにしておこう。
公園は思ったよりもずっと広くて、ソリ滑りができそうな大きな土の傾斜や、綺麗に手入れされた花壇があった。
パンジー、ケイトウ、リンドウ。秋の花も色とりどりだ。
リンドウって変な形で花が付いてるな、と思ってマクドナルドを抱えながらスマートフォンでカメラアプリを起動して、上からも下からも写真を撮る。
カシャ、カシャ。乾いた音に混じって、消毒液と血の匂いがした。
どうしてだか僕はその匂いに敏感だった。ずっと彼女を探していたからそんな気がしたけど、ただ嗅ぎ慣れているだけだったかもしれない。
風に長い黒髪が揺れて、ミニ丈のワンピースと太ももまで上がった長い靴下がやけにアイコニックで浮いている。
「あ、あお、」
三度目と言うべきなのか、二度目と言うべきなのかは、もはやわからなくなっていた。
僕は彼女に出会った。
「葵さん」
「わたし?」
あろうことか、彼女はその言葉に反応してしまった。葵さん。本当に、彼女の名前だった。
「あ、いや、あ……ごめ、えっと、ちが、」
「うん」
僕は彼女の、「うん」という一言で安心してしまった。ゆっくりとか、大丈夫とか、具体的な単語は何一つ言っていないのに、ただ許されたのだと思った。
「違く、ないです」
「ほんとう? じゃあ、よかった。ひとちがいだったら恥ずかしいから」
人違いなんかじゃなかった。
誰かを待っていた気がするのに、もうなにもわからなくなっていた。
いま目の前にいる彼女が「葵さん」なんだと思うと、それが他人なのか自分なのかさえわからなくなって、どう話しかけたらいいのかわからなくなってしまう。
「あの、この前、桜の写真、撮らせてもらってありがとうございました」
「いえ、熱心に写真を撮っていたので」
「……な、名前、春会ったとき、偶然聞いちゃって」
「あぁ、それで」
彼女は消毒液の匂いがした。血の匂いがした。
「怪しいというか、自分でもキモ、いや、あの、保険証とか見ときますか」
「えっと、困るだけ、かな」
そう答えても、僕を傷つけるカッターナイフの色はない。
名刺を差し出そうかと思ったけど、それもやっぱり怪しすぎる不審者の行動な気がする。相手を害したいわけじゃないし、嫌な気持ちになってほしいわけでもない。
困り果てて固まってしまった僕を見る。
彼女はすこし考えてから、口を開いた。
「……じゃあ、代わりに名前を伺ってもいいですか? それでおあいこです」
自分が葵さんに対して名乗っていなかったことに、そこでようやく気がついた。僕は勝手に彼女の名前を聞いたけれど、僕は一度も呼ばれていないし、名乗っていない。そもそも僕の本名を知る人のほとんどは今の僕に関わりがない。
対価だ。
僕が彼女の名前を呼ぶことへの、対価。
そう思い込みたかっただけで、実際はそうじゃないことは明白だった。彼女は僕が加害妄想をしていることを観察して、認識して、適切に救いを処方しただけだった。
生えっぱなしの庭を作るより簡単なことだ。
単に一言二言おしゃべりしたいだけだった僕の下心は、簡単に見透かされた。僕は自分を守りたいだけで、彼女を加害した気になって自分の弱みを彼女に押し付けているだけだ。
だから、名前を告げたら、これでおしまいだ。
「カナエと申します。」
「そう、かなえさん。字はどんなのを書くんですか?」
僕は結局、名刺を出した。人形作家として働く時も、同じ漢字を使っていたからだ。
「この漢字で、三つ足の器のことを指す漢字です」
カバンに戻そうと引っ込めた僕の名刺を、彼女は細い指で受け取った。爪の形は綺麗だけれども、細かく見れば薄い縦線が入っていて栄養不足を感じさせる。
過分な神経質のせいで僕が彼女の指先に視線を取られている隙、彼女は僕を見ていた。
「鼎さん、きょうは素敵なワンピースですね」
「え?」
彼女は僕を、見ていた。
それからはもう、わけがわからなくなってしまった。
彼女は「また明日」と手を振って、準備したマクドナルドも食べずに茫然と片付けて家に帰った。
そしてどうしてだか、いややはりと言うべきか、家に帰ると、意思を持った僕の作品と顔を合わせた。
「なぜここに?」
〈葵さん〉は本物の葵さんに会えば、消えてしまう僕の妄想だと思っていた。だけど、彼女は確かに動いて、生きて、僕の目の前にいる。
「なんで、って……。ここがわたしのおうち、なんでしょう?」
そうだ、僕は確かにそう言った。
改めて考えるとおかしな話だ。こんなものが葵さんに見えていただなんて、こんなものを「葵さん」だと誤認していただなんて。
後ろで、自分の作った人形たちが笑っているような気がした。その幻聴があまりにも不快で、僕は耳を掻きむしる。ボロボロの爪ではすぐに耳が傷ついて、けれども耳たぶは簡単に取れやしなかった。
「わたしに、なりたかったんでしょう?」
葵さんが、僕に微笑みかける。目の前にいるこの人は、僕をゆるしてはくれない。僕は僕が許せないから、目の前にいる彼女も僕をゆるしてはくれない。
彼女からは消毒液と、血と、カッターナイフの色がする。
カッターナイフの色は余分だった。それは、本物の彼女にはなかった。つくったものと、ほんものではこんなにも違う。僕は余分なことをした。
長い黒髪も、混沌を煮詰めた瞳も、消毒液の匂い、血の匂いも何もかも。それは「葵」という少女の特徴的な要素ではあったかもしれないけれど、なによりも作品は『僕自身』であって、葵さん本人にはなりようもない。
彼女は、「また明日」と言った。僕は白いスカートの制服から、ずっと目を逸らしていた。外は寒いから、ずっとずっと、僕は家に篭っている。
可愛い服を着て嬉しくなったり、
三食しっかり食べるべきだと思ったのも、
体調に気を使い始めたのも、
植物を整理し始めたのも、
花のことが結構好きだと思い出したのも、
「お弁当作ってもよかったな」と思ったのも、
ぜんぶ、僕だった。
目の前の、僕が対面した「鏡」には、着飾った可憐な少女の「僕」が写っている。
走ってボサボサになった髪も、もとは綺麗に伸ばしたもので、可愛いワンピースを着てお出かけをするのが夢だった。
いつか、うまくいったら、学校にも通おうと思っていて。
僕がみていた混沌は、僕自身のものだった。