『勇者と魔王の話』

(Long long ago)

 魔王はひとを愛すのか。
 勇者はひとを愛すのか。
 勇者はただの人間だと伝う。村を失い、家族を失い、世界を救った救世主。
 ああ、人間ではなく、動物ではなく、生物ではなく、しかし彼らは生きていた。
 それのなんと、寂しいことか。

『勇者と魔王の話』

 

「ドラゴンを倒して、世界のなにが変わったかなあ」

 数か月前、ドラゴンに悩まされていた世界を救おうという殊勝な志から、この世を漂う精霊の一部であった私を切り出して物質界に喚び出したしたのは、レナトゥスという人間の子どもだった。
 結果として、『天災』であったドラゴンを倒した彼は勇者と呼ばれている。各大国から騎士の称号を与えられ、巨万の富を与えられ、世界中の権力者から頭を下げられているのだが、それでも、先ほどのような発言をするのだ。自身の生活が変わっても世界はなにも変わっていないと、本気で思っているし、自覚している。

「天災に悩まされる人間が減った。それから、私の『同類』も、簡単に現象化し易くなったんじゃないか」
「精霊が増えるとみんなびっくりして、変に争わなきゃいいけど……。あっ、じゃあ、二つ目の願いはこうだな」

 爽やかな空の色をした瞳は今は曇っていた。諦観を滲ませながらも虚ろに笑う男は、ひどく歪んでいて、まっすぐな男だ。
 ドラゴンを倒すだけなら私一人でよかった。彼が村を焼いて私を喚び出したときから、彼はそれを知っている。世に伝えられている悪魔というほど私は人間を愛しているわけではなかったし、世に伝えられている天使というほど私は世界を愛しているわけではなかったからだ。
 ドラゴンを倒せばいいのか、と尋ねた時にこいつは言った。「ドラゴンを殺す力が欲しい」と。

「俺が許せる世界を作ってくれ。あんたの手でな」
「了承した。その願いの中に、なにか要望は?」
「俺はみんなが幸せになる世界を望むよ。悲しまず、苦しまず、絶望せず、怒らない世界。これはお前にしか祈れない。人間にとっては重すぎるものだから」
「わかった」

 なにも変わっていない、何も変わっていないのだ。
 自分の故郷まで犠牲にして世界の悲嘆を救った勇者・レナトゥスは、世界のためにしか生きられない、かわいそうなやつだった。人類を平等に皆愛し、人類を平等に皆諦めている。
 彼は悲しむ人間を許せなかった。
 彼は苦しむ人間を許せなかった。
 彼は絶望する人間を許せなかった。
 彼は怒る人間を許せなかった。
 許せないから正す、そうとしか生きられない、かわいそうな人間。けれども自分が人間であることを望まずにはいられない、かわいそうな人間。

「あんたを孤独にするぞ、この祈りは」
「孤独を悲しいと思うのは人間だけだ」

 夢に見てしまったのだ。彼が苦しまずに生きられる世界を。

     ***

 彼が望んだ世界なのに、彼は私の許から消えてしまった。

 レナトゥスが失踪したと聞いたのは何十年か前のことだった。人間にとってはずいぶんと長い時間が経っていることを私は自覚していたが、レナトゥスがいなくなって困ることはなく、私がいなくなって困ることが増えるばかりだったから、彼を探すことは諦めていた。『魔王』と名乗っていた私は、自分の召喚者を探すことすらも不自由な身となっていたのだ。

 あくる日、年老いたレナトゥスが、そこにいて当たり前とでもいった表情で私の寝台の上で脚を伸ばしていた。
 瞳の蒼穹はそのままで、皺だらけになった肌と白い髪が醜くて、「ああ、こいつは死ぬのか」と納得してしまった自分が嫌に思える。
 なにひとつとして実感のなかったレナトゥスの『老い』はたったの数十年で追い付いてしまった。

「お前は、死んでしまうのか」
「知っていたよ。最初から、叶わないことなんて」

 私の問いに答えはない。代わりに伝えられた言葉はあまりにも寂しい言葉だった。
 悲しみのない楽園が本当に、叶わないだなんて思っていただろうか。叶わないだなんて言っていないだろう、お前の願いは私が叶える。ただ待っていればいいんだ、未来を。
 そうは思うが口を開けない。死ぬ人間に未来を待てと言えるほど人間の気持ちがわからないわけではない。少なくとも、『魔王』となってからは。
 しかし未来という言葉以外に、人間にかける言葉なんて知らなかった。

「子どもができたよ。孫も生まれた。すごくうれしくて、俺ってけっこう普通の人間だったんだって、思ったんだけどさ。争いが起きた時に、手放せちゃったんだ。特別じゃなかったよ。仕方がないだろ、ひとつの国を救うのに、たった三十六人の犠牲で済んだんだ」

 私の慰めの言葉を待っているか? いいや、違う。
 「おまえは普通の人間だよ」そう言うにはあまりにも彼はおおきなものを見すぎていた。あまりにも求めるものが人間のそれではなかった。
 誰よりも王に相応しかったのはこの男ではないか? それでも、ああ、レナトゥスはただの人間であることを願ったのだ。王でも、預言者でも、司祭でもなく、ただの人であることを願っていた。

 私の頬に触れた手はしわがれていたが温かかった。私を見る瞳は変わらずに蒼穹を映していた。

「……人間には重すぎるって言ったよな。あんたにとっても重すぎた。ごめんな、ごめん。だってお前、クソ真面目なんだもん。俺が逃げた責任だ。もう忘れていいよ」

 私は頷けない。頷いてしまったらお前は『苦しい』だろう。そう思ったからだ。
 私はなにも与えられずにいた。求められなければ与えることはできなかった。

「三つ目の願い、なにが良い」
「なんにも。なんにもないよ」
「あるだろう、言え」
「じゃあ、『あんたを幸せにしてやって』くれ。七十年もの間、縛り付けていたからな」

 あぁ、最後までおまえは他人の幸せを願うのか。ほんの七十年だ。人間にしていれば長い、私にとっては短い時間。それを知っていてレナトゥスは笑う。
 ならば受け取らない道はないのだ。この人間にとっては、それが一番の幸福だということを、私は知ってしまっている。

「……了承した。私の名前を持っていけ。願いを叶えていないから、お前の魂を送ってやることはできないんだ。私の本当の名前は、ノア=ヨシュア・クリストス、『運命を運ぶ者』」