『アプフェルバオムに伝う愛』

(Long long ago)

 

 出会って間もないころ、突然にキスをされた。
 初めて「どうしてキスするの」と訊いたとき、あの子はこう言ったのだ。

「だって私たち、お友達でしょう?」

 きみのいう『お友達』なら、それが噂と違わない存在なら、ぼくと出会う度にセックスしないなんてのはおかしな話だね。人間でいうところの青年とでもいうべきからだをしている今のぼくは、きみのいう『お友達』になれるわけなんて、みじんもないよね、なんて。
 素肌で触れた指先が冷たかったから彼の心が温かいとか冷たいとか、そんなことがあるわけはなくて。人間みたいに醜悪じゃないぼくらは『嘘』なんてきたないものを持ってないから、あたりまえにその言葉は真実で。

「ねえ、ひな。僕のこと好き?」
「どうしてそんなことを訊くんですか? おかしな質問ですね」
「答えてよ」
「大好きですよ、ゆら」

 深い意味はないのだ。深い意味なんてない。当たり前に白雛が微笑むのはそれしか知らないからで、当たり前に僕にキスしてくるのはそれ以外に愛の伝え方を知らないからだ。《知識の獣》と揶揄される吸血鬼ですら知らないことはたくさんある。間接的に知ることはできても理解はできない。愛の伝え方なんて人間から知ったりなんてしない。
 白雛は、苦しいことは知っていてもそれを不快と言い切るだけの感情がこれっぽちもなかった。かわいそう、かわいそう、なんて、傲慢かな。

 

『アプフェルバオムに伝う愛』
(かわることは恐ろしく、またくるしみを生むだろう)

 

 そこは人間の感覚でいう汚らわしいところであるらしいのだけど、私の前でひらかれるそこ、という場所が存外きもちがよかった。《吸血鬼》である以上、もともと快楽によわい体をしているのは重々承知してはいたのだけれど、私がこんなにも恥ずかしいひとだなんて思いもよらなかったと、その当時は驚いたものだった。
 濡れた髪が肌に張り付いて鬱陶しかった。小さな蕾をもてあそんではぐずぐずに蕩けたその中にからだをうずめて、すると『人間』は愛に溺れるそうなのだ。

「『恥ずかしい』のに、どうしてそんな場所をひらくのでしょう? 私が暴かずとも、あなたは恥じらいに頬を染めながら『ここ』を差し出すでしょう?」
「恥ずかしいけど、触れてほしいの。ひなちゃんのことがすきだから、そうおもうんだと、おもうな」

 けだるげな少年の声がベッドの天蓋に響いていた。声の変わり目のほんの少しのかすれた声には、もう何一つとしてそそられやしなくなっていた。
 私に触れてほしいという願いはもう叶わなくなる。好き『だから』触れてほしいという感情に道理の適った必然性は感じなかったのだけれども、私は「私があなたに触れたいと思うのも、『好き』だからですか?」と微笑むのだ。

 

     ***

 

 白雛が所有する庭園の薔薇は白雛の瞳と同じ色をしていた。僕の瞳よりもずっと青色の深いやわらかな紅は、海の底では黒になる。そこは白雛の瞳とは違うな、と何となく思っていた(いいや、夜の闇でも僕らの瞳には昼と変わらぬ赤を認識できるのだけれども)。
 ベンチに腰かけて、僕は淡い色のついたクッキーを食べていた。口内でさらりと崩れ落ちる砂糖の甘みはけして「おいしい」とまでは言わないけれども、なんとなく癖になるような味だった。そうして二度三度クッキー缶と自分の唇の間とを動いた手が、突然掴まれる。
 二人以外に誰もいないこの庭園でそんなことをするのは触れ合うほどすぐ近く、隣にいる白雛しかいないのだけれども、白雛ははたと驚いた表情をしていた。

「なに? 白雛」
「……、さあ。なんでしょう」

 そういってすぐに白雛は微笑むけど道理の通らないことを言ったりやったりする様な子じゃないことを、僕は知っている。わからないことをわかったような顔をして微笑むのは白雛の常套手段だった。
 驚いた上にそれをごまかした白雛に僕も驚いて、異様な沈黙が流れていた。
 まさかとは思うけど確信に至らない。白雛は愛を知らない。

 

     ***

 

 おかしい、おかしい。おかしい。
 シーツの中でもがいても何も変わらない。皮膚をすり合わせても何も変わらない。胸の中で滾る何かを私はなにも言葉にできずにいた。なにか、なにか、それをとらえなければならないのに、私は初めて形の知らないものに触れられていた。

 誰かに触れたい、触れて犯したい、ああけど、今だけは梅桃に会いたくない。おおよそ初めてと言える感覚に、熱量に、どうしていいのかわからない
 梅桃の手を取ったあの瞬間から、私は生まれて初めて、自分が何を考えているのかわからなくなったのだ。梅桃に私は何をしようとしたのだろう、何を望んで、手を伸ばしたのだろう。

 

     ***

 

 ケーキの乗った皿をフォークで手繰り寄せて、崩れ落ちた生クリームを指で掬う。対面に座る白雛の、薔薇と同じ色をした瞳をのぞき込んだ。

「どうしてキスしないの?」
「どうしてだと思いますか?」

 そりゃきみが気分じゃないからだよね、とは言わないけど。
 目に見えて様子のおかしい白雛に僕はなにも言わないままだった。きみの『お友達』、そろそろ抱きつぶされて死んじゃうんじゃないのとか、憂さ晴らしに大事なお友達の血を飲んじゃうなんて珍しいねとか、匂いだけでわかることも少なくはないんだけれども、じゃあなんでそんなに白雛がフラストレーションをためているのかって、それは僕には関係のない話。
 生クリームで汚れた指先を舐めとって赤いイチゴがかたちばかりの食道を通る物質感にぞわりと走る快感。もう一度白雛を見ると頬杖をついた白雛が楽しそうに僕の口元に視線をやっていた。

「梅桃、おいしいですか? それ」
「おいしいよ。ほら、生クリーム」

 皿から生クリームを掬って腕を伸ばす。すると白雛は薄く口を開いて舌を伸ばす……と思えば、その腕はやんわりと押し返された。

「白雛?」
「すみません。食事をしたばかりで。なんでもありませんよ」

 そんなことは知っている。だからと言って断る道理はない。僕らは物質種の食事をとったところで、『人間』の食事をとったところでおなかがいっぱいになるわけがないし、得られる糧も殆ど無い。断る理由は何一つとして存在しない。
 いつもの戯れじゃないか。「なんで」、と、疑問が浮き上がって、押し戻される腕の感覚に以前の茶会の記憶が想起される。あの時の白雛の表情は(吸血鬼にしては)忘れっぽい僕でもまだ毛先一本の動きまで忘れていない。あの時この子は、自分の行動に驚いていた。

「白雛、舐めて」
「どうして、ですか」
「どうしてって、どうして? いつも白雛は言っているよ。断る『道理』はないんでしょう」

 視線をテーブルクロスに下ろして黙ってしまった白雛に確信する。白雛がものを『嫌がって』るんだ。合理的か非合理か、必然性があるかないか、心地よいかよくないか、だけでものを判断していた白雛の一貫性のない言とは思えない「嫌」。ふつふつと湧き上がる仄暗い快感に唾液を飲み下した。

「ゆら、」

 嫌がる白雛の唇に無理やり押し付けた指先を、当惑に揺れる声を響かせたその割れ目に押し込んだ。生クリームを与えるためじゃない。くちのなかをまさぐって、触れた白雛の牙が僕の皮膚を割いて赤い血を滲ませる。
 同胞の血に、吸血鬼の禁忌に触れるその行為から驚きに見開かれた瞳に気分がよくなって、ガーデンテーブルから立ち上がる。僕の手を口内から抜くように白雛の両手が僕の腕を掴むけど、同じ【伝承書姫】とは言ってもたまにしか人間の血を吸わない白雛と僕の力の差は歴然だった。僕の指先を舌先が押し返そうと動く、みるみるうちに白雛は見たこともないような表情で息を上げて、僕はその様子を目で追いかけながら舌先に切れた指先を擦り付けていた。
 僕が何故そんなことをしたのはわからない。ただ「僕がそうしたかったから」そうした。心ってそういうものだ。

「白雛、これ、嫌?」
「わ、かりません。わかりません、」

 わななく唇に気分を良くしながら絡める指を止めて瞳をのぞき込む。不安げに揺れるそれは死を前にする子供と同じだ。自分から流れる血がなんなのかも理解できずにただ浅くなる呼吸に怯える人間の子供と同じもの。
 胸の奥で嗜虐心が疼くけれども、僕は白雛を壊したいわけじゃない。
 誰がいるわけでもないのに白雛をガーデンチェアから引きずり降ろして、テーブルの下に身を潜めるように赤いレンガに押し倒す。僕はきみが何を考えてるのか知りたいだけ。心なんてありません、みたいに優しく微笑む白雛のことも結構すきだったけど、どうしてだか僕との接触から逃げる白雛に対して、それ以上の興味を持ってしまったのだ。
  地面についた左手は右の指と絡めて、動きの止まった白雛をいいことにシャツのボタンをはずす。一度も貫通したことのない首筋の皮膚が、動揺に上がった呼吸によって動いていた。

「ごめんね、責任は取るから」
「だめです、だめ。私、きっとあなたのことが嫌いになってしまったんです、だから、」

 同胞の血を飲むのは吸血鬼の禁忌。それは背負う情報量があまりに多いから。それは仕舞った心があまりに多いから。それは背徳の、味。

「もう、触れないでくださ、」
「黙って。」
「ん……、ぁ、」

 皮膚を裂く感触は人間と同じなのか、と心のどこかで落胆していた。そこからあふれ出る蜜は何一つとして人間と同じものではない。甘く、濃厚で、どうしようもない心の奔流が僕の奥の奥を満たして熱くさせた。――あぁ、どうしてだろう。人間って馬鹿なんだよね、気づかないよね、わからないよね。

「ねえ、ゼカリア・リート=デ=メア・エア、『天より記憶されし海の歌』? それをひとは『嫌い』と言わないよ。ねえ、僕に触れたい? セックスしたい? 全然違うね、きみの知ってる『言葉』と、全然違うね」

 好きって、きみがふと僕に感じてしまった「好き」って、それは「触れられたくない」ってことだよ白雛。
 血から得た真名を頼りに脅すなんて卑怯だね、僕。けどもう少し、もう少し白雛の心が知りたかった、その奥まで知りたかった。好かれていると知ったから? いいや、友達ってこういうもので、きっと好きって、最初から好きだった。

「じゃあそれって、なんですか。教えてください。もうずっとこれから、忘れませんから。……知らないのは、怖いんです」
「わからないものは、触れなくちゃわからないままだよ」

 それは醜悪で、それは甘美で、それは明媚。
 気が付けば、白雛との指は絡めあったまま、もう片方の手で自分のシャツのボタンを外していた。白雛の血を啜ってから胸が焼けこげるように熱い。骨の髄まで全部、ぜんぶ、触れたくなるこの感覚は、僕だって知らないものだ。

「ユリア・コルル=デ=ヴェル・エルル。僕の本当の名前、誰にも教えたことがないの。僕に触れてみて?」

 秘密を共有した僕たちは、知ってはいけないことを知ってしまった。
 ねえ、楽しいね白雛。これで僕、きみと友達になれた、だろうか。