『依違たる色彩の問答』

 傷つけてはいけない、癒してはいけない。
 守ってはいけない、壊してはいけない。
 離れてはいけない、触れてはいけない。

 ああ、それでも愛しても良いだろうか。
 いいや、これらの全てはただ、愛しても憎んでもいけないという、ただ一つの結論のためだけに存在していた。

 

『依違たる色彩の問答』

 

 蒼穹が遠くにあった。その青に触れたところで硬いのだと思う。地面が固いのと同じように。(いいや、元より触れられはしないのだが)
 慣れないまま数百年の時が流れた靴を芝生に放り出してその地べたに寝転ぶと、矢張りまた蒼穹は遠くなる。
 地面は好きだ。硬いけれど触れられる。その存在を違うことはない。
 迷子になった自分を探す片割れの気配を感じる。この調子だとあと三十分もすれば捕まってしまうだろう。遠く離れてはいたが、どうにも存在を一対で定義されている俺たちは片方が探そうと思えばすぐに見つかってしまうのだ。

 淡い紫の小さな花が視界の端で揺れていた。
 蒼穹に問いかけたことがある。答えが返ってくるはずもない、物質種のように定義を持つ言葉があるわけでもない、ただ問いかけたのだ。

「空にも花は咲くか」

 答えが返って来たわけではない、答えが返ってくるはずもない。
 大地には花が咲く、大地は美しくもないのに。
 『蒼穹の許に咲きし金の花』として定義された俺の魂は、そのままからだの名前になっていた。空に花は咲かない。花は金という色を持たない。物質界における物質的な『事実』だろう。この名前がどんな意味を持っているのかは、幾重もの時を重ねてもわからない。そもそも言葉にどれほどの意味があるのかすら俺は知らない。

 あぁ、違うことが恐ろしい。よいもわるいも存在しなかった俺たちに実体を与えたのは勇者だった。或いは魔王であったと言っても差し支えない。龍を殺せば肉体に縛られる、そうしてもう数千年だ。定義を持たず、善悪を持たない曖昧な存在であった、そうあるべきだった俺たちは、どうしようもなく物質界に惹かれていた。名前に縛られ、定義を持ち、善悪を、正誤を顧みるようになって、それはひどい恐怖を呼び起こす。
 違いたくない、正しくありたいという、ただそれだけの想いのために。

「金の花は咲くか?」
「物質界には銀の虹だって存在しないよ、ルルディ」
 俺も間違いたくはない。三度蒼穹へ問いかけようという瞬間、視界に影が落ちた。
 見覚えのある影、ゆるく癖のついたやわらかな銀の髪が陽の光を受けては多様な色彩を生み出しては消えていく。その様は『虹』そのものであるのだが、それを口にしてしまえば目の前の片割れは砂糖に漬け込んだ花よりも甘い言葉を用いて俺を慰めるのだろう。「きみのほうがよほど花らしいがね」などと言って。
 あぁ、想定よりも早い片割れ――イリスの姿にため息が零れていた。
「……もう、見つけたのか」
「『見つかってしまった』とでも言いたげだなぁ。探さなきゃ泣いてしまうだろ、きみ?」
 イリスは揶揄うような笑みを携えたまま、地上に立っては俺を見下ろす。青いリボンで覆われたその空を映した瞳は、隠れていてもやはり俺を見据えていた。

「なにを物思いに耽っていたんだい」
「空に、花は咲く、だろうか」
 すん、とため息をついたイリスは俺の隣の芝生に腰を下ろす。腰を据えて話すこともないのだが、構わず続けることにした。
「それらが存在しないなら、それは果たして正しいのだろうか。世界を調停する者が正しくなければ、その存在はなんだというのだろう」
「へえ」
 気の無い返事が返る。この思慮はきっとイリスには理解し難いものであろうと思ったが、ただ片割れが聞いていると思うだけでほんの少し軽くなるような気がしていた。
 正しくありたい、そう望むのは天性精霊種や世界の調停者としてはあまりにも困難なことだ。自身が見える世界を正義とする人間と違って、俺は世界の法律を知りすぎている。

 見上げた蒼穹は青かった。イリスが摘みあげたクローバーが眼前で一回転、回った緑にそれが四つ葉であることを知る。イリスはいつも通りの仕草でその葉の一枚をちぎっては口に入れる。ただの三つ葉となったそれは、与えられるがままに俺の口内へと運ばれた。

「エノフ=ルルディ・クリューソス、蒼穹の許に咲きし金の花。その存在は偽りか?」
「いいや、俺はここに存在している」
「なら違うことはない。きみの存在もまた確固たるものだ。
 私は物質界を一番に知った精霊種だからな? 伝えてやるとするならば、花は物質種にとって、この世で尊ぶべきものに与えられるものなんだ。物にしろ、言葉にしろね」
 先ほどまで視界の端で揺れていた淡い紫の花が摘み取られて、イリスの唇へと触れた。寝転がってばかりの俺はただその唇を見つめて、追いかけると目の前へ終着する。口内に落とされた花が不自然に甘く融解していた。

「このキスだって『異質なもの』さ。なんせ私たちが実体を持つなどまずありえないことだったのだからね」
 イリスの目を隠すリボンを緩ませて、かち合った瞳はあまりに青い。
 蒼穹の色に、花の差し込む瞳だった。