『吸水する空気』

(或いは木製の扉、)

「降るよ、」

 雨。天宮がそう言った。
 肌に湿り気。開いた扉。ピアノと湿った店内、外には車道。天宮にはなにが見えているのだろう。見上げた空は青かった。

「雨の匂いは昨日の残り香だ。天宮、部屋にいたあんたは知らないだろうが、昨日の夜は雨が降っていた」
「今日も一日部屋でピアノを弾いている」

 いや、そこじゃなくって。脳内でツッコミを入れながらも、雨だという忠告はありがたいし、折り畳み傘くらい持っていこうかと店の扉を閉める。埃一つ被っていないアップライトピアノの前を通って暖簾をくぐったバックヤードはごちゃごちゃとしていた。
 それはそれとして、天宮にはなにが見えているのかが気になる。

「天宮。きみ、窓も見てないのに天気がわかるのか?」
「なんとなく」

 そりゃすごい。十代にして世界的なピアノコンクールで何度も優勝するような『天才』様はピアノ以外のことに関しても繊細なのだろうか。いや、その線は薄い。料理の味はわからないし、俺の蔵書から貸してやった本は二行で寝落ちた。
 やっとのことで見つけた折り畳み傘をバッグに入れてベースを担ぎ直す。通り道で後ろから見た天宮の指先はアップライトピアノの鍵盤の上で小さく震えていた。腱を断裂した指先で奏でられるのは昔のような超絶技巧ではなく、やわらかな旋律。コンクール用に鍛え上げられた正確な打鍵と、繊細な音色。

「音が」
「え?」
「最近、雨が近づくと音が変わると気が付いた。昔から湿度はピアノの音色に影響を及ぼしていたが、最近は湿度ではなく天気で変わる」

 鍵盤も見ずに指先の感覚だけで奏でられるピアノの音が雨音のようにころころと響いて耳を支配していた。合った視線の青色がみずたまりのようだと思う。微笑みを投げかけられれば微笑みで返すしかない。
 なるほど、この『予知』、どんな環境でも最高の音を奏でてきた天才ピアニスト・天宮伶の感覚そのものだったのか、と納得する。背にかけたベースが湿気で重みを増している気がしていた。

「音楽家にとっては最悪の季節だものな、梅雨とか、日本の夏って」
「音の変化が楽しいんだ。私の音はこんなにも変わるものだったのかと感動すら覚えるほどに」

 伏した目が、睫毛を透かしてあおい瞳が明々とひかるさまを際立てていた。『美しい音』を奏でていた天宮にとって雨や湿気で籠りがちな音は今までにどれほど邪魔だったのだろう。頭に疑問が過ぎった瞬間、天宮の弾くアップライトピアノはいつもよりも柔らかな(変、と言っても差し支えがない)音を上げ始めた。驚きに目を見張ると、動く指はそのままに天宮がくすくすと声を上げて笑う。よくよく足元を覗き込むと、いつの間にやらピアノは鍵盤のハンマーと弦の間にフェルトを挟む、弱音ペダルが踏まれていた。湿気でただでさえ籠る音をさらに歪ませてこのピアニストは楽しんでコロコロと笑っているのだ。

「梅雨がこんなに楽しいと思ったことはない」
「そりゃよかった」

 時計を見る。午後一時半。もとより時間も決まっていないようなゆるい集まりのバンドではあるけれど、夜に店を開けることを思うと早めに出るに越したことはない。奏で続けられるピアノは弱音ペダルを外してもとの音に戻る。梅雨特有の、湿り気を帯びた空気に響く、やわらかな音だった。

「天宮、夕飯何が食べたい?」
「レアステーキ」
「そんな高級品、なにかの記念日でもないのに作らないよ」
「知らない? この曲の作曲者、モーリス・ラヴェルの好物だったんだ」

 え、ラヴェルってそんな肉好きなの? 著名なクラシック作曲家にしては珍しい、人生も女性関係もとくだん派手じゃない、というか、硬派なラヴェルが(世間的な分類でいうと雰囲気任せな印象派だけどね)。

「それに、今日は梅雨記念日だよ、私のピアノが雨にも負けず正しく響く日」
「またそういう冗談を当たり前に口にする……」

 自分のピアノに合わせて鼻歌まで歌い始めた天宮をよそに、帰りに商店街の肉屋で牛肉を買おうと画策しながら扉を開けると、さっきまでの青い空はどこへやら、バケツをひっくり返したような大雨になっていた。鈍色の空、白い雨の針。水の戯れなんてものじゃない。扉をくぐってすらいないのに足元が濡れはじめていた。この店内の防音、働きずぎじゃないか?

「さっきから降ってたよ、きみが気が付かなかっただけで、音自体は結構前から」

 打ちひしがれる俺をよそに天宮が笑う。俺は思わず折り畳み傘を片付けにもう一度扉を閉めた。というか、ベースにもビニールをかぶせなきゃこりゃきつい。俺のフェンダーが大変な音になりかねない。諦めてドラマーのタクシーを呼ぶか、とか考え始める自分に項垂れる。

「え、すごい雨じゃん?」
「言ったじゃないか、雨が降るって」
「まさかこんなに降るなんて」
「梅雨だからね」
「天宮のピアノが雨乞いのピアノだったなんて……」
「おい。」

 もうやめ、今日のステーキは明日以降に延期。適当についた嘆きの冗談に天宮から非難の声が上がる。演奏をやめたアップライトピアノに振り返った。でかい傘は店のカウンターの裏に置いてはいたけど、それは後。
 
「天宮、今度は晴れそうな曲を弾いておいてくれ」
「なんだよ、それ」

 馬鹿じゃないのか、なんて笑われる。ピアニストにとっては最悪の季節。けど想定できないことって、ちょっと楽しい(いまの雨のように絶望をもたらすことも多いけど)。
 肌に湿り気。閉まった扉。担いだベースと乾いた傘、自分の店の中にはジャンルの違う音楽家。そういえば雨の日のライブって、なんでか盛り上がるんだよな。

 

(雨宮と叶/ピアニストとベーシスト/梅雨の話)