『スノウドロップ』

(Days in the past)

 ぼくが作ったドレスをぐちゃぐちゃに切り裂いてまでぼくから逃げようとした勇気一杯の少年。人間にしてはかわいらしくて、人間にしては勇気がある。道具なしで魔力を使えない人間がちょっと走ったところで簡単に追い付けるのだけれども、そうはせずに追いかけた。
 少年が振り返ってぼくと合った視線は視線は恐怖に染まっていた。知っている、『知っている』。だからぼくはその手を優しく取るのだ。
「ごめんね、怖がらせちゃって」
 ねえ、仲良くなりましょう。そうして芽生えた生への執着と希望を胸に抱いて、壊れる瞬間が至上の聖餐。
 
(ーーああ、そんな過去)

 

『スノウドロップ』

(恋のまなざし。或いは希望)

 

“ぼくを襲った人間の目を夢に見て目が覚めた。
 それは恐怖でなく、畏怖でなく、愛玩でなく、柔媚でない。
 ぼくはその目に宿る感情を知ることが出来ずにいた。”

 

 右手に触れる体温は気温の低い地下道でたしかな熱量を持っていて、確信をもって進む友人の背を、ぼくは追いかけるだけ。
 暗い地下道、狩り尽くされた『同族』の、つめたい血液とその匂いだけが闇に残っていた。
 生の匂いを感じさせない冷たい血液はぼくたちの不快感を刺激するけれど、汚れるからって避けてもいられない。その血だまりにブーツの靴底をつけて、どこか粘着質な感触に顔を歪めながらもその歩を止めることはしなかった。

 ランタンが照らし出した鮮やかな青の髪は橙色のひかりにあてられて淡く色づいている。隣で眠る白雛の傷はもう塞がろうとしていた。人間による『狩り』が始まって五日目の夜だった。
 ドラゴンが星の魔力を喰らう天災として認知されだしたのは、魔王が死んでいくらか過ぎた日のことだった。ぼくら吸血鬼の支配を受ける代わりに安定した膨大な量の魔力を得ていたこの国の人間たちは、唐突に訪れた大規模な魔力の喪失によって狼狽し、吸血鬼に反乱を起こした。
『吸血鬼をドラゴンに捧げれば自分たちの魔力を失わずに済む』とかそんな確証もない安易な考えで、どこからか妙な力を手に入れた人間たちに、同族たちは蹂躙されているのだ、つまるところ。

 ん、と小さく呻いて目を覚ました白雛と目が合う。二人で逃げ出して、五日目の夜だった。
「あぁ、……新月ですか。いけませんね、どうにも、安定しなくて……」
「そういうものだからね。人間もこれを狙ってたんじゃないかな? 新月に元気な吸血鬼はいないでしょ」
 あくびを噛み殺しながらぼくの頭をなでていた白雛の手がぼくの頬に滑って、心地よさに目を閉じる。触れた体温があたたかい。まだねむい、のだろうか。
「おはようございます、梅桃」
「おはよう、白雛」
「行きましょうか」
 寝起きの挨拶も早々に終えて、けだるい体に鞭を打って立ち上がる。時折襲ってくる強烈な眠気は新月の夜だから仕方のないことだとは思うけど、そうも言ってられない。やがてここも見つかってしまうだろう。
 普段たくさん血を飲んでいたぼくでこれなのだから、白雛の消耗はたぶんもっと激しい。

 きっとぼく一人じゃここまで逃げてこられなかった。【伝承書姫】として魔王に名指しされているぼくたちは、少なくとも吸血鬼の支配を受けたことのない国に出なければ、そうしなければ逃げきれない。『吸血鬼の貴族』として殺されてしまう。それがぼくたちの共通認識だった。

 歩き出して一時間と過ぎた頃。不意に、白雛が歩みを止めた。
 白雛の肩越しには古びた木製の扉。地下道中を汚しつくしている血痕はそこには残らない。この扉の奥で同族が殺されたような匂いや気配はない。
「ひな……?」
 先に見えた地上への扉を前に歩みを止める道理はない。訝しんだぼくの言葉に反応はこないまま、白雛の体は崩れ落ちるように地べたへ倒れ込んだ。
「白雛!」
 ランタンが転がるのをよそに咄嗟に体を支えることもできなくて、揺り起こした朱色の瞳はぼくの視線を捉えない。指先が冷たかった。傷を受けた状態で暗闇に入り込んだのがまずかったのか、なんなのか、とにかく光のもとに出してやらなきゃならないことは明白だ。
 白雛の体躯を抱いて地上への扉を開くと、知らない足音が響いた。
 人間の振りが通じるだろうか? 否だ。人間にしてはぼくらの容姿は造形がよすぎるし、それに憲兵隊の黒服なんて着ていちゃ誤魔化しようがない。武器なんかあったもんじゃなくて、影なんてあったもんじゃない。魔法の触媒がない状態じゃ、変な兵器を持っている相手にまともに戦うことなんてできない。
 片手にはランタン、もう片方には白雛。階段はこちらが下方だ、下手に攻撃するよりも、地下へ落として逃げてしまったほうが良い。

「ひなちゃん!」
 ぐっと身を構えて歩を進めようと靴裏を踏みしめた瞬間に響いた、声。変声前の少年の声だ、よく知っている。ランタンが階段を転げ落ちる音がする。ぼくの手にランタンは握られたままだった。
 先を照らすとかち合ったのは青い瞳。『人間』だ。白雛のことを愛称で呼ぶ奴は多くない、多くないけど、ぼくは一人だけ、その人間に覚えがある。
「少し先に俺の家があります。そこで手当てを」
「待って、信用できない」
 狼狽を乗せて蒼穹を映す視線に目を奪われている隙に腕を取られた。そのまま階段を上ろうとする少年に待ったをかける。金の髪に蒼穹の瞳、人間にしては愛らしい美貌。
 これは確認だ。白雛の愛称を知っているからといって、そうやすやすと信じてはいけない。
「どうすれば、信じてもらえますか」
「……、その言葉で十分だ。わかった、付いてくよ」
「はい?」
 確信だ、この子は血を啜られたことが一度もない。
 吸血鬼が殺さずに何度も味わうような『人間』が吸血鬼の性質を知らないわけがない。自分たちに敵意があるかなんて血を差し出せばすぐにわかる。けれどもそんな世の理を知らない。
「吸血鬼が好きなのは知識だけじゃないってこと」
 三年前から百五十回は話を聞いた、唯一人間の、白雛のお気に入り。

     ***

 雪雫と名乗った少年に案内されたのは屋敷の書物庫だった。この国の屋敷ならば当たり前に存在する地下の書物庫にはベッドとテーブル、それから、窓のない鍵付きの扉。
 隠れるには丁度いい。都合がよすぎるとも思うのだけれども。かたいベッドに白雛を降ろして、血に汚れた手袋越しに触れた頬は冷たかった。
「きみ、屋敷にあるだけのランプや蝋燭、持ってきてくれない?」
「え? あ、はい」
 人間の街でまともな寝処にありつけるだなんて思っていないからそれは良いとして、先に白雛の処置が必要だ。少年は『手当て』と言ったけれども物質種である『人間』が外傷の応急処置をするような話でもない。精霊種にとって物質界での外傷はただの切っ掛けだ。多少弱ることはあっても意識を失うほどの傷にはならない。それなら、魂ごとどこかしらに霧散していると考えるのが妥当だ。魔力と親和性の高いものに引っ張られすぎている。
 彼が持ってきたランプにありったけの明かりを付けて、かたいベッドで眠る白雛の隣に並べると、距離の近い光源に照らされた体は大きく揺らぐ影を作った。ぼくらにとっては『自分の影』が物質界で一番、自分の魔力と近しい物だった。
「ひな、……白雛、起きて」
 返事はない。ランタンに照らされた影が黒く揺れていた。埃くさい書物庫でランタンや蝋燭を燃やし続けるのはあまり得策ではないし、出来る事なら早く起きてほしいものだけれども。
「ひなの真名、こいつ本人から聞いたことある?」
「知りません」
「うん。じゃあ、ちょっと出てって」
 素直に今一度階段を駆け上がる雪雫の背を傍目に、ランタンに照らされる白雛の顔を見やる。
 影の濃さは存在の濃さ、そう言ったのは『ぼくら』を定義した魔王だった。吸血鬼を光の下に閉じ込めた魔王は「閉じた世界で生きるな」と言ったけれども、生きる理が違うものは違うんだから仕方がない。
「ゼカリア、起きて」
 はと開く視線に目が合う。真名を呼ぶのは存在の支配、魂への干渉。そうしてむりやりに起こした白雛が驚いたように声を上げた。いまだ疲労の残る表情で、ほんの少し胸が痛む。
「……寝てましたか、私」
「真名まで呼ばなきゃ起きなかった」
「ええと、おはようございます、梅桃」
「おはよう、白雛」
 ぼく以外に誰が知っているのかはしらないが、ともかく今はぼく以外に名前を呼ぶ奴は居ないのだ。
 身を起こして白雛が解いた髪に、触れるとその手を取られた。袖口から手袋の隙間に指が這入り込む。互いに自分の血液で汚したそれは絡み合う指からするりと抜け落ちて、合った視線に微笑まれる。
「ゆなくんの家、ですね」
「なんだ、来たことあるの?」
「いえ、けど匂いが」
「人間の匂いなんてそんなに変わらないじゃん、ヘンタイ」
 『ゆなくん』というのは雪雫のことだ。人間なんてどれも同じに見えるけど、彼の目にはそうは見えないらしい。
 白雛みたいに人間の中の一人にこだわる吸血鬼は少なかった。ぼくのような支配ではなく共楽。じゃあ白雛は魔王の言葉の意味が分かっているのかな、なんて。
「とにかく、少しは大丈夫なんですね。もう少し眠ります、すみません」
「いいよ」
 視線を合わせたままからだを手繰り寄せる腕に抵抗せず、白雛のからだに身を預ける。背に腕を回して、眠るのに邪魔にならないくらい緩く、その髪にリボンを巻き付けた。
「あの人間に貰ったら、血。くれるでしょ、ひなが必要なら」
「それはできません。ゆなくんは『お友達』ですから」
「じゃあ、早く逃げないとだね、白雛」

 雪雫と白雛は愛し合っている。名前を呼ぶって、そういうことだ。

     ***

 三つの夜が過ぎていた。吸血鬼の殆どが殺されたと白雛から聞いても、白雛は起きないままだった。

「俺の血じゃだめなの? ゆら」
 頬に手を這わせると擦り寄る様に目を伏せる。薄く開かれた蒼穹の瞳がぼくを見上げた。知っている、これは柔媚の瞳だ。
 結局のところ雪雫の血は一度たりとも貰っていない。ぼく自身もだ。白雛を差し置いてぼくが血を飲むわけにもいかないし、味はともかくとして子供の血を貰ったところでけっきょくのところ「たかが知れている」のだ。

 月が小さいというのもあるけれど、それ以上に白雛は血が足りていないのだろう。毎日の様に人間の血を飲んでいたぼくですらどんどん体が動かなくなっているのがわかっていて、苛立ちは募るばかりだ。
 この前みたいに白雛をむりやり起こして先に逃げる? ばかみたいな話だ。国の際では首都近くで使われた武器よりも得体の知れないものが使われる可能性が高い。吸血鬼を『街ごと』壊滅させるような武器を人間が持っているなら、そんな状態で動くのはどうぞ殺してくださいと名前を差し出すようなものだろう。
 月光が背を照らしていた。意識を失った犬と死んだネズミがぼくの手を汚す。気持ちが悪いとは思うけど、白雛が雪雫の血を飲みたくないんならこうするしかない。人間にもなれやしない物質種の持つ情報なんてたかが知れているけれども、人間を攫うにはリスクが大きすぎるのだ。
「……帰ろ」
 早く起きて、白雛。