『晩春』

 白にも見える淡い青に塗りつぶされた一色の空に、独特の紋様を浮かべた木の幹が亀裂を生んでいた。
 数日前は数多の花を咲かせていたであろう大きな幹にはくたびれた花の額と、小さな青い葉しか残っていない。儚げな花々は散る際にこそ美しいのだとユキサは言っていたか。
 ――ならば散ってしまった花はどうなのか。僕にそれを聞く勇気はない。
 とおい記憶よりも短い命に息を吐く。僕と同じ名前を持つ花の、春の話だ。

 淡い色の花弁が地面に落ちていた。
 『桜の絨毯』と言うには汚れすぎている景色は、あぁ、決して、間違っても詠に謡われるようなものではない。


『晩春』

 

「花が散った」

 広すぎる畳の部屋の、簾の奥には幾重にも重なった薄い布があって、そのまた奥にいるひとのかげを不明瞭にしている。
 昼間の『そいつ』はいつもそうだった。彼は僕のものじゃないし、僕も彼のものじゃない。その人影に、僕から触れることはない。

「俺も朝に見たよ。次は紫陽花かなぁ」
「牡丹もだ。おまえの、花」
「ああ、そうだねぇ」

 御簾越しの彼に対して、「得体が知れない」と言ったのはいつだったか。きっとこいつは僕がそう言ったことすら覚えていないし、覚えていたところで気にしているということはない。

「外の様子はどう?」
「さっき話した。桜が散ったんだ」
「聞いたよ、サクちゃんはどう思ったのかなあって」

 昼間の彼は僕の話を聞いていた。話すのがあまり得意ではない僕の話を聞いて、楽しいものではないと思うのだが、それをやめた日は一度もない。
 僕はどう思ったか、僕はどう、思ったのか。空に亀裂が入っていた。桜が散っていた。花弁が落ちていた。若い緑の葉が出ていた。どれもこれも一度伝えたことがある。一度ではないかもしれない。それでも楽しそうに笑うのだ。
 昼の『彼』も、ユキサも、僕の言葉に落胆はしない。僕の伝える言葉を丁寧に受け止めてくれているのは知っている。
 それでも足りないと思うのは、きっと僕が伝えきれずにいるからだ。言葉は不自由だ、と、思う。僕と彼を隔てる御簾と同じように。

「春は、もっと長いものだと思っていた。うすぼんやりした、僕の記憶がいつのものかはわからない、が、もっと、春はながいものだと。
それなのに今日は、地面に落ちた花弁を踏んでいた」

 僕はどう思ったか。なんと言葉にしていいのかはわからない。春はながいと思っていたが、存外桜は簡単に散ってしまった。それだけ。たったそれだけのこと。

「サクちゃんは嫌だったんだ? 花弁を踏んじゃうの」
「それは、」

 なにを言い返せるわけでもないのに、僕はなにかを言い出しそうになって、結局、口を閉じるしかない。胸の奥でなにかがざわつくが、それを僕は言葉にできない。
 返答を待つ沈黙が苦しくて、逃げるように空を見た。この部屋から見える庭に桜はない。
 嫌、だろうか。花弁を踏んでしまうのは。
 踏むことはわかる。あたりまえだ。あれだけの花弁が落ちていては、誰が歩いても花弁を踏んでしまう。嫌、だったろうか。

「ゆっくり考えるといいよ。こっちにおいで」
「い、やだ」
「そうだね。サクちゃんは『きらい』なものは嫌だってわかるもんね」

 そう、嫌だ。御簾越しのこの男は、人間とは違ういきものであるように感じてきらいだ。けど、桜の花弁を踏むのは、きらいだと言うほどのものは湧いてこない。
 桜が散った。僕は散った花弁を踏んだ。たぶん僕は、それがいやだった。確証はない。この男が言ったからだ。

「嫌でもいいよ。おいで、サクヤ」

 御簾の奥を見ても、奥の人影が動くだけだった。
 促されるがままに膝をついて、御簾の目の前で頭を垂れたところで腕を引かれる。
「な、にっ、……っゆき、」
 簾が音を立てて揺れるのもお構いなしに、その奥に強い力で引き込まれた。
 視界を埋め尽くす薄い布地に僕はどうしていいのかわからない。重心の行き場を失ったからだが厚い胸板に倒れ込んだ。

「あははっ! 何日ぶり? 五日?」
「み、三日だ。お互いの顔を見るのは、」

 目の前で笑うユキサが無邪気に笑う。厳密には何日と言うほど会っていないわけではないのだ。御簾越しでしか、顔を合わせていなかっただけで。
 降りた御簾が周囲の景色を圧迫していた。桜のない庭は見えない。床に手をついてからだを起こそうにも首に回された太い腕がそれを阻害した。触れあう肌があたたかい。僕の手を握る人間の、手。

「花弁、を、踏んでしまったんだ」
「嫌だった?」
「まだ、わからない。悲しくも、嬉しくも、怒っているわけでもないんだ。散った桜を嫌いだとも思わない。……けど、ほんのさっきのことなのに、足元の花弁のことを何度も考えてしまう。花は、ずっと散っていたのに」

 気持ちを捉えればいいのかはいまだにわからないまま、もう一度。言葉にすると、やっぱりどうしてもそこで行き詰まる。
 悲しくはない、嬉しくもない、怒っているわけでも、散り切った桜を嫌いだとも思わない。それだというのにどうしてだか胸のつっかえが取れなくて、苦しくなる。

「きっときみは寂しかったんだね」
「寂しい……?」
「いないものを心が追いかけるんだ。きみから何度も桜が散ったことを聞いたよ。きっとそういうの、『寂しい』って言うんだよ」

 ぎゅう、と抱きこまれてほんのすこし痛みを感じるからだとは裏腹に、窮屈さをを感じていた喉元がすっと広がるような気がした。耳元に吹き込まれるおだやかな声は御簾越しに交わしたものとなにも変わらない。
 かたちを失っていた心が名前を知って、ほんの少しだけ、どういうものだかわかって安心する。

「僕は、終わってしまう春が恋しかった」
「そうだね。きみの二度目の春だよ」

 たったそれだけのことで寂しさを感じる。
 『寂しい』、とは、満ち足りない心のこと。そこにいないものに、恋すること。本で読んだだけの知識を想起して、腑に落ちる。ああ、きっと僕は寂しかった。

「もう一度、散った桜を見てくる」
「ああ、行ってらっしゃい。また話を聞かせてね」

     ***

 淡い色の花弁が地面に落ちていた。

 僕が御簾を這い出す頃、空はすでに西日の橙に濡れていた。
もう少しすれば日は落ちてユキサが御簾から出てくる。けれどもそうはしなかった。
きっとあいつの言葉なら、言葉だけでも僕に伝えられたはずだ。けれども、そうはしなかった。
 ならば、ならばユキサ。昼のおまえはなにに寂しさを感じているだろう。

 『桜の絨毯』と言うには汚れすぎている景色は、あぁ、決して、間違っても詠に謡われるようなものではない。
 ユキサも知ってはいるだろうが、僕の口からは、伝えたくない景色だ。