『光満ちるアルベディア、喪われた輝きの土地』
「森の奥にカラフルな花畑があるんだ!」
王都にある一番大きな森の前、アーサーは赤い瞳を爛々と輝かせて高らかに宣言した。
芝生に座り込んだまま話を聞いていた二人の少年が、お互いに目を合わせる。二人の驚いたような反応に、アーサーは得意げな気持ちになった。この花畑の情報は、五つ年上の友人たちを動かすほどのビッグニュースだったというわけだ。
「この森の奥にあるんだ! 見に行こうよ」
「今度のお休みなら探しに行けると思うけど……」
隙を逃さないように『演説』を続けると、宝飾品を太陽に照らしていたレンが、やっとその手遊びをやめて真面目に話を聞こうという姿勢を取り始める。
隣で本を読み続けるイオンがアーサーの話を話半分にしか聞いていないのはいつものことで、逆に言えば本を読んでいても話半分には聞いている。ともかくレンさえどうにかしてしまえば彼は勝手についてくることをアーサーは知っていた。
「そのカラフルなお花畑……〈毒の花畑〉は本に出てくる空想の話でしょ?」
「違うよ、本当の話」
レンは「うーんと」と気まずそうに視線を泳がせながら、黒く長い髪に指を絡めて物事を整理し始める。
毒の花畑が見つかるなら、確かにレンは見てみたい。
けどそれを言い出したのは五つも年下の子供だ。十三歳の自分だって十分に子供である自覚はあったが、それよりも子供なアーサーの言葉をどこまで真剣に捉えていいのかわからなかった。
ひとまず、レンは詳しく話を聞いてみようと腹を括る。
「ここにあるって、どこで知ったの?」
「昨日の夜、見たんだ」
「えっ? 夜の森に行ったの?」
「ううん。ベッドにいたよ」
「それはつまり、夢で見たってこと?」
「うん。夢の中で、『助けて』って声が聞こえたんだ。だから見に行きたい」
質問にアーサーが頷けば、レンはいよいよ眉を下げて困った顔をした。夢の中なら、確かに幻の花畑があってもおかしくはないだろう。
レンはこれまでの問答の中で一度も口を挟んでいなかったイオンへと助けを求める。
「物知り博士は聞いたことある?」
「 御伽話 の中でなら。」
変わらずページから視線を逸らさないイオンからは自分の常識通りの返答が返ってきて、レンは胸を撫で下ろした。
イオンが知らないということは、誰も知らないということだ。
そして、空想の話であれば、レンも聞いたことがある。
『光満ちるアルベディア、喪われた輝きの土地』
『地に芽吹く極彩色は毒の花畑、それは閉ざされた輝きの色』
輝きが閉ざされたと民謡でもよく歌われるように、このフィリアム王国の本土は雨が多くていつも曇っている。日照時間が短く、花が咲いている時間も短い。
鮮やかな色の花——このアルベディア大島で言うところの『毒の花』となれば尚更だ。
「お休みの日に、大人のひとたちと一緒に行こう?」
まだ幼いアーサーにもわかりやすいように、レンはそのことを説明した。しかし、アーサーの持っている確信に対してはどんな説得も無力に終わった。
「助けてって言われたんだ。だから見に行かないと」
「誰に言われたの?」
「わからないけど、助けてって言われたんだ」
極彩色の花畑に関して、実際に存在するという絶対の自信がアーサーにはあった。
誰にも信じてもらえなくても自分はあの場所へ行かなければならないという確信だ。予感のようなそれは今もアーサーを急き立てている。
話を本気に受け取ってもらえないことを察し始めたアーサーはレンの顔を見るのをやめて、森の方へと向き直った。
「もういいよ! 一人で見に行くから」
アーサーの父親——ローレンスはこの大きな森をメインフィールドにしていて、いつも仕事中の話をアーサーに話す。その父親が話す、森の植生や動物の縄張りをアーサーはきちんと手帳にメモしていた。だから、本当に一人で森を抜け切る自信があった。
「ひ、一人はダメだよ! ローくんは?」
「父さんは朝から仕事!」
「せめて誰かに言ってから行こうよ。ボクたちじゃ無理だよ」
「無理じゃない!」
「無理だろ。」
イオンが聞いていられないといった様子で横から口を開いた。
「大人に言ったら『きみのパパに任せなさい』って置いて行かれるのがオチだから、ズルをしたいんだよ。」
黙っていたと思えば、イオンはつらつらと言葉を並べてアーサーの図星をつく。
「アカは特殊な体質で、親馬鹿のローレンスにすら森に連れて行ってもらえないんだから。他の大人たちが親を差し置いて許す訳がないだろ?」
アーサーが森へ出入りしてはいけないとローレンスからきつく言われていることは事実だった。大人と一緒だったら許されるなんてこともない。本当に、森への出入りが禁止されているのだ。アーサーは森の抜け方を誰よりも知っているつもりではあるが、知っているだけで、実践したことなどは一度もない。
アーサーは段々自信がなくなってきて、視線を森から下げ、整地された芝生と森の雑草とを見比べた。
それでも胸の内にある妙な焦燥感はアーサーを急き立てているままだった。だから、どうしても行かなければならないのだ。
俯いたまま森へ足を進めると、背後から「アカ」と愛称を呼ばれる。変声期がきて低くなりつつある、少し掠れたイオンの声だ。
「落ち着け。俺達が一緒に行ってやらないなんて、言ってないだろ?」
振り返った視線の先には、何を考えているのかわかりづらい普段の無表情ではなく、悪戯な笑顔が浮かんでいた。
「大人たちに内緒のまま、俺達がアカと一緒に行けば良いんだ。」
「えっ?」
アーサーも、そしてレンも揃って驚いた声を上げた。この二人の中で、イオンは優等生のイメージだったからだ。
「俺達でいい?」
「イオンたちがいい! 元々一緒に行くつもりでこの話をしたんだから!」
アーサーは声を弾ませて、イオンに抱きついた。
「花畑を探しに行こう。」
イオンも笑って応える。指輪を嵌めた華奢な指が、アーサーの髪を梳く様に撫でた。
隣では、レンが驚きに声を上げたときのままの表情で固まっていた。
「ねえ……、大丈夫なの?」
「大丈夫! 怒られないよ。見つかる前に帰っちゃえばいいんだ!」
真っ先に答えたのはアーサーだ。けれど、答えを求めたのはイオンに対してだった。
レンは不安そうに森の奥を見つめ、自分が持っているアクセサリーを撫でる。白く濁った輝きの宝石が、触れた途端に絵の具を落としたように色を変えていた。
「大丈夫。俺がなんとかしてみるよ。」
イオンはアーサーの頭を撫でていた手を離して、レンに差し伸べる。まじめくさった普段のイオンからは考えられない言葉で、レンはわくわくした好奇心を抑えられなくなってしまう。
レンだって、アーサーを否定したくて質問を続けていたわけではない。極彩色の花畑、 ——伝統に乗っ取った表現でいうところの〈毒の花畑〉の実在に関しては疑う余地があるにせよ、伝説にしかない花畑を探すというのは大変魅力的でロマンある話だ。
それに、友達と三人で、大人にも秘密の作戦を実行できることは甘美な誘惑だった。
レンは言葉を噛み締めるように小さく頷いて、差し出されたイオンの手を取った。
「ボクも、一緒に行きたい」
「やったぁ!」
アーサーにとっては初めての森。御伽話に語られる〈毒の花畑〉。自分の聞き受けられた冒険の提案。……それだけではない。大好きな友達と秘密を共有する。つまりは自分たちが絶対に仲間だと言い張れるのだ。喜びに震えないわけがない。
「それじゃあ、出発!」
アーサーの弾んだ声にレンとイオンは笑って応える。
期待を胸に、整地されていない草むらへと入り込む。木々の間を縫って、通った道や知らない草花をメモに残しながら、アーサーの夢に出てきた道の通りに足を進めた。
「わあっ……!」
留めようもなく溢れた感嘆がそれぞれの口から飛び出る。
木々に覆われ、薄暗い森を時計の針が回り切るほど歩いて抜けたアーサーらの眼前に広がったのは、立ち上がる炎の様に鮮烈な紅 、燦然と輝く太陽の様に煌く金、遠く広がる海の様に深い蒼。伝承通りの、極彩色の花畑だった。
この森の奥で強い光が差しているというのに木々はその場所を譲り合うようだった。それまで地面を覆っていた木々の影は不自然なほど途切れ、陽が大地を照らしている。
「こんなに沢山のお花初めて見た!」
「きれい……」
興奮気味に話しかけるレンに対し、アーサーはぼんやりと返事を返しながら一面に広がる花畑を見渡した。
「あんまり奥に行っちゃだめだよ。あぶないから」
「うん。けどあの子が見つからないんだ」
アーサーはまた周囲をぐるりと見回す。背の高い花で隠れているのかとも思ったが、この花畑にはそもそも人の気配がしない。
「誰も居ないな。」
一角に座り込んでいたイオンが事実を確認するように呟き、最初に花畑に誘われた理由をレンは思い出す。
「アカちゃんの夢の話だよね。声がしたんだっけ?」
「そう、『助けて』って」
拾った小枝で花をかき分けてみても、意を決して「だれかいるの?」と声をかけてみても人の影は見られない。アーサーの勘違いだったのだろうか?
幻想的な花畑の果てしない様子を見ていたアーサーは急に不安を感じて、イオンの元へと駆け戻る。
すると突然、大きな音が響いた。
「——伏せろ!!」
三人は咄嗟に身をかがめ、森の茂みに隠れる。イオンはアーサーを胸に抱き込みながらレンの手を取り、周囲へ警戒を向けた。
紅 色の魔法石で強化された、大きな銃撃音が響く。聞き覚えのあるその音が、またいくつか響いて、思わず周りの様子を確認したくなる。三人はぐっと我慢して、言葉通りにその銃撃音が止むのを待った。
大きな獣の足音が、花畑から遠のいて行くのがわかる。大きさから、ただの動物ではないだろう。
銃の音が止まって数秒を過ごし、イオンは茂みの影から顔を出す。
赤い外套、すらりと伸びた長身に、アーサーよりも少し暗いハニーブラウンの髪の毛が揺れていた。——ローレンスだ。
「おまえたち、なんでここにいるんだ!」
普段穏やかなローレンスが声を荒げていて、ここが危険な場所であることを誰もが理解する。花弁を舞い上げる甘い風が、濃厚な鉄の匂いを運んでいた。
「言いつけを破ってごめんなさい。〈毒の花畑〉を探して来たんだ。」
真っ先に謝ったのはイオンだ。ローレンスのただならぬ様子を見たイオンは、とにかく早く状況を説明しなければならない。
イオンの腕の中でアーサーがおずおずと顔を出す。ローレンスはほんの少し驚いた様子だったが、すぐに真剣な表情に戻ってアーサーの話を聞いた。
「父さん、俺が誘ったんだよ」
「……うん。わかったよ、愛しい子。森に入ったことはきっちり叱るけど、それは後回し。ここは彼に味方をする聖霊が多すぎるからね。……森の出方はわかる?」
「うん」
ローレンスは「いい子だ」と心底柔らかい声で言って、アーサーの頭をくしゃくしゃと撫でる。指輪のついた無骨な手だった。
蕩ける様に力の抜けた柔らかい微笑みを奥に潜め、ローレンスはアーサーへ向けていた視線をイオンとレンへ向き直った。
「この花畑には巨大で、とても力の強い魔物……、見たこともない銀色狼がいる。
どうやら我を失って暴れているようなんだ。いつも言ってる様に、アーサーの魔力は狙われやすい。イオン、頼めるかい?」
少し考え込む様に息をついて、イオンが伺う様に問いかける。
「ローレンスは一緒?」
ローレンスは首を横に振った。
「ううん。僕は他にも、守るものがある」
黙って聞いていたアーサーの上で、イオンはなにか言いたげに口を開いたが、次の言葉が発されることはない。開いた口は閉じられ、唇を噛んだ。
「レンくん。落ち着いているね? ここに来るまででも何度か遭ったかもしれないけれど、森には 銀狼 以外にも魔物がいる。二人を、守ってくれる?」
「うん、できるよ」
いつも通りのローレンスの言葉に、レンはいつも通り、控えめな声で小さく頷いた。
空に遠吠えが響く。陽の届かない森の奥から、花畑へ向かって駆ける獣の足音が、近づいている。
「僕が音響閃光弾を投げて十秒経ったら、都に向かって走り始める。銃の音が聞こえなくなったら、少し足を緩めてもいい。……けれど絶対に、僕が『良い』って言うまで森には戻らないこと。いいね?」
ローレンスは、言い聞かせる様に言う。
「さあ、狩りを終わらせよう。君たちを守るすべは伝えたよ。誇りなさい、それは今のきみたちができる精一杯のことなのだから」
銀狼の足音に向けてローレンスが音響閃光弾を投げた。耳を塞いで、目を閉じて、十。九、八、七……と心の中でカウントする。
甲高い音が花畑の向こう側で響いたのを確認して、レンとイオンは視線を合わせた。
イオンがアーサーを抱きかかえて、ふたりは同時に走り出す。年が五つも離れているとはいえ、体の出来上がっていないイオンにとってアーサーの体は軽いものではなかったが、なりふり構っている余裕はなかった。
全神経を集中して、運動強化の魔法を全身に巡らせて、駆け出した。
レンとイオンの二人はローレンスが力を測りかねる様に『とても力が強い』と表現したことに強い不安を感じる。
魔物に対して、ローレンスが『強い』と称したことは一度もない。守るためだからといって子供を脅かすような物言いは一切しないし、かと言って、相手に対して過小評価も過大評価もしない。彼はそういう人間だ。
三人の背後からはローレンスの銃撃音が聞こえる。彼の使う魔鉱石の紅い光が、かすかに薄暗い森の木々の輪郭を映し出していた。
「たすけて」
アーサーの頭の中に声が響いた。弱くて、かすかで、悲痛な声だった。
イオンに抱えられながらじっと道順を追っていたアーサーは、身を捩って湿った地面を踏む。
その声が聞こえたからには振り返らずにはいられなかった。
「きみも狼から逃げてるの!?」
アーサーは思わず、叫んだ。聞こえていた。耳をつんざく様な泣き声がそこらじゅうに響いていた。
気がつけば、アーサーは何も考えずに声が聞こえる方へと走り出している。
「ちょっ、アカちゃん!? だめだよ、一人で行っちゃ!」
レンは慌てて、その背中を追う。当然、イオンもその隣で追いかけた。
花畑から走って、もうしばらく経っている。その声が聞こえた方角は、花畑とは別の道のはずだ。だというのに何故、ローレンスの魔法銃の音が聞こえるのか。
光が見えた。
——声が聞こえたから、そこに、足を踏み入れた。
瞬間、視界に広がったのは地面いっぱいに広がる極彩色の花々と眩いほどの光。
なにもかもを委ねてしまいたくなるほどの、祈りにも似た安心感。
あまりの神々しさにアーサーは一瞬脱力する。毒の花畑に戻ってきてしまったことに身の危険を感じて森へ戻ろうと振り返ったが、踏み出した一歩よりもずっと遠くにレンとイオンが見える。
ただ一歩踏み出しただけだ。だというのに今、アーサーは一面の花畑の中心にいる。
「アーサー!! 逃げろ!」
ローレンスが叫んだ。魔法銃の射程いっぱいの距離だ。この場の誰も聞いたこともないほどの焦燥と剣幕の滲んだ叫び声だった。
アーサーの目の前には大きな銀色狼の、巨大な鉤爪が迫っている。
レンが悲鳴を上げて、その場に蹲った。
——ドンッ。
鈍い音がした。アーサーは衝撃で地面に転がる。
何かに突き飛ばされたのだと思った。けれど、鋭い鉤爪に肉を裂かれた感覚はない。
ほとんど同時に花弁が舞い上がる。獣が動いたからではない。風ではない。これは聖霊の力じゃない。ただ人間の中に渦巻く純度の高い、魔法にすらなっていない、純粋な魔力がその場を満たした。
アーサーは何が起きたのかを掴めずにいたが、その場に居てはいけないことだけはわかる。イオンの元へとどうにか走り出す。
レンを宥めるように声をかけ続けていたイオンは自分に向かって走ってくるアーサーを確認すると、レンを背に抱え、アーサーの手を取って、もう一度花畑の外へ走り出す。
今まで聞こえていた中でも一際重く大きな銃声に、アーサーは思わずローレンスのいた場所へ視線を向け、走り出したローレンスの先にいる銀狼を見た。
銀狼は唸り声とも、咆哮とも取れる様な低い鳴き声を上げる。先ほどまでよりも深く、不安定な音程だ。銀に煌く毛が逆立ち、銀に瞬く両目がその光を鋭くした。その銀色は花畑の色彩を反射して虹の様にも、闇の様にも見える。
その銀狼は、アーサーでもなく、ローレンスでもなく、中空を見つめていた。
魔物は、そもそも人間が自然に干渉しすぎて魔力暴走を起こした自然の成れの果てだと一説にはある。この銀狼もそうだろうか?
ローレンスは巨大な銀狼に向けて走り出した。アーサー達の進行方向の対角線上——先ほど銀狼が視線を向けた方へと走り抜ける。
「 僕の愛し子 アーサー、愛してるよ」
すれ違いざまにローレンスが囁くように言った。
聞き慣れた挨拶だ。だが、眠りの前の言葉を何故今言うのだろう。
中空に向かって鉤爪を掲げた銀狼に対し、ローレンスは振り返らないまま、銀狼に背を向ける。
一瞬の出来事だった。
ローレンスが、相対すると決めた対象には、絶対に背を向けない。狩猟対象を追いかけるときでも、アーサーたちに愛を伝えるときでも、それは変わらない。だというのに何故、ローレンスは銀狼から背を向けた?
疑問が三人の理性に浮かび上がってくる前に、ぬるついた液体が極彩色の毒の花々を赤い血の一色に染め上げる。
大きな魔獣、大きな銀色狼。理不尽なほど暴力的に襲い掛かってくる毒の花畑の色彩が、銀色狼のギラついた毛皮を、極彩色を、映しては消えて、また違う色を映し出す。
ローレンスの背を引き裂いた鉤爪と、あたりの花々だけが赤く、赤く、赤く、赤く、一色に煌めいていた。
「大丈夫。……大丈夫だから。守るよ」
数メートル離れた場所から、アーサーたちは微かに聞こえたローレンスの声を聞き取った。アーサーにとっても、レンやイオンにとっても聞き慣れた、優しい声だった。
極彩色を映し七色に輝く、絶望的なまでに美しい銀色の狼が、ローレンスの体を地面に押さえ付け、その、大きな口を開く。
「アカ、見るな! 走れ!」
イオンは咄嗟にアーサーの腕を強く引く。動揺から脱力し、抱きかかえたレンの長い前髪が、彼の目にかかっていることに息をついて、イオン自身も全力で走りだす。
三人は、足をもつれさせながらも走りつづけた。
背後でなにかが折れる鈍い音がした。嫌な音も響いた。それでも呻くような声は一つも届かなかった。
レンを抱えて走り続けたイオンは勿論、途中から自力で走り出したレンは動揺に揺れる心を押さえ込んで襲いかかる魔物を牽制していたし、体のできていないアーサーにとって森の道は険しい。
体が軋んで、思う様に動かないが、それでも走らなければならなかった。
都へ抜けろ、手助けをしろ、守れ。誇りなさい。それは今のきみたちができる精一杯のことなのだから。それぞれがそれぞれに与えられた役割をまっとうする。ローレンスとはそういう『約束』だ。
全力で走りすぎて吐き気がするほどだった。酸素の回らない頭では視界すらもぐるぐると回ってみせた。振り返りたい。抱きしめたい。抱きしめられたい。あの指輪のついた大きな手で頭を撫でてほしい。
三人ともがそんな望みを全て断ち切って、今はただ逃げるしかできなかった。それが今の自分たちにできる精一杯のことだと、わかっていた。
森の出口が近い。木々の間を縫って森へ入り込む光は花畑とは違う質を持った、混沌とした丸みを帯びた光だ。
「父さん、だいじょうぶ? いつごろ帰ってくる?」
アーサーの言葉にレンは視線を泳がせて、小さく「ごめんなさい」とだけ呟いた。
イオンは口を噤んだ。口を開いてしまえば、情けなく嗚咽をあげてしまいそうだったからだ。
ローレンスはいつ帰ってくるのか? アーサーの問いに対して二人の答えは明白だ。レンとイオンは聞いてしまっていた。叫び声も上げずに、ローレンスがただ耐えながら肉を裂かれ、骨を折られているその音を。
「きっとあのひとは死んだから、帰ってこない」
だが、それを口にすることはできない。
誰も、何も言わないまま陽が傾いて、空は橙色に染まっていた。
少し歩けば都の端、赤みがかった煉瓦の建物が数十メートル先で見えている。
森と都の境界の、芝生から煉瓦道まで歩くのさえ億劫で、ローレンスと仕事を共にしていた大人たちが迎えにくるまで、三人は芝生の中に座り込んでいた。