わたしたちはいつだってひとりぼっちだ。
それがさびしくてたまらない。
わたしたちはひとりで、
わたしたちはすべてで、
わたしたちはきみたちのそばにいる。
こえをきいてくれるひとがいた。
ただ、それだけでよかった。
夜明けの穏やかな光が、小さな庭に植えられた木の葉の影を映し出しながらカーテン越しに注いでいる。
このころ暖かくなってきた気温は浮上しかかった意識を揺蕩わせるが、アーサーはその意識を沈ませることなく柔らかいシーツを擦りながら起き上がった。
あくびをこぼし、ぼんやりしたまま誰もいない家のダイニングに声をかける。
「おはよう」
今日も変わらず外は曇りの様だ。
挨拶に応える者は居ない。五年前とたいして大きさの変わらない鉢植えだけがその声を受け取っていた。
起き上がったアーサーは並べ立てられた同じ様な大きさの紅茶缶からラベルも見ずに適当なものを手に取り、水瓶に溜まった水を鍋へ移し替えて湯を沸かす。魔力を失いつつあって出力の安定しない魔鉱石式の食品炉が、鍋とフライパンを温めていた。
フライパンにはソーセージを一本。溶き卵に砂糖を入れて適当にかき回す。森で摘んできた野草と、市場で買った野菜とを一緒に盛り付けて、木の椀にパンを並べた。
五年前から使い続けて古ぼけたティーセットを手に取り、窓際のテーブルへとそれらを運ぶ。
「この恵みに感謝を」
食前の祈りをおざなりに捧げてパンを片手に、手帳を広げる。
極彩色の花畑で父親のローレンスが消えて五年。彼と同じ様には行かないが、それから二度と見つかっていない花畑を探しながらアーサーは専門魔法士として仕事を請けるようになった。
アーサーの手帳には郊外の森——『お化け森』の地図が詳細に書き込まれている。昨日散策した場所にバツ印を書き加える。
昨日も一昨日も、花畑は見つからなかった。
森の地図を更新し続けるのは、アーサーの日課の一つとなっている。花畑でローレンスと別れてから、もう五年になる。通った道は確かに存在しているが、あの、極彩色に輝く毒の花畑はこの五年間一度も見つかっていない。
ローレンスの存在とともに、あの花畑は隠されてしまったのだ。
今日探索するルートを確認したアーサーは中途半端にしていた食事を済ませ、古びた魔法銃を肩に担いだ。
ベルト代わりのホルスターに入れた拳銃とハンティングナイフを確認してから金具を調整する。アーサーの日常の一部となった一連の行為を、鼻歌混じりに流れるような動作で行う。最後の仕上げに、玄関口に置いたブレスレットを手に取った。
陽が上がって間もないため、人通りのない商店街の空気は冷めていて、暦の上では春といえども微妙な天気も相まって、うららかな春は体感としてはまだ先のようにも思える。
商店街を歩いている人はほとんどいない。店の中で準備をしている人の気配があって、開店前の様子は忙しそうだ。
大通りをのんびり通り抜けていると、店先から馴染みの顔がひょこりと現れる。
「おはよう! アカちゃん」と威勢よく声をかけられた。
アーサーはそれに返答するか迷って、顔をそちらへ向けずに一応「おはよう」とだけ返す。商店街の人々は、アーサーが父親と一緒に店を訪れていたことを覚えていて、それがなんともいえない居心地の悪さを浮き彫りにする。あまり親しく関わりたくない相手なのである。
しかし、その大きな挨拶が呼び水となって、他の店内で準備していた店主たちもアーサーの背中の方から大声で声をかける。
「アカちゃん、またあの森に行くんだって? 狼退治頼んだぞ!」
「やめなさいよアンタ、狼が出たって決まったわけじゃないだろうに」
「言葉のアヤだよ! 無理すんなよぉ」
こうして商店街の人々が盛り上がりだしてしまうともう一つ一つの声に応えるのも面倒で、適当に手を上げてひらひらと振るだけだ。張り上げた声のまま好き勝手喋り出す商店街の人々を背に、アーサーは森へ向かった。
今回、専門魔法士連合——ユニオンを介して請けた仕事の内容は、最近都に出没するようになった野生動物の原因調査だ。先ほど通った商店街も含め、庭荒らしや馬車との衝突事故が絶えないのだという。
町中に存在する森がいくつかあるが、街の往来で動物を見かけることはほぼ無いといって差し支えない。ほとんどが管理された森林公園になっていて、簡易な結界が張られているため動物も十分に管理されている。
しかし街中での野生動物被害は、日に日に件数を増していた。
そうして整備されていない原生林——通称『お化け森』を拠点として狩りを行っているアーサーへお鉢が回ってきたというわけだった。
手首につけた魔法具のブレスレットを確認して、深呼吸をする。森へ立ち入るにあたってアーサーは警戒を引き締めた。
今日は一人だ。今日も、一人だ。頼れる相手は自分だけだ。
誰にも見られていないのを良いことに、アーサーは大きなため息をつく。
(調査って言ってもなあ……)
進めば進むほど大きく育った木々の影はいっそう深くなって、森の中は完全に空が覆われる。じっとりとした霧が立ち込めていた。
膨大な魔力が拡散して、ある種の結界のようになってしまった『お化け森』は、あれから地形も生態も変わってしまった。この土地に自然科学の常識は通用しない。
手帳に地図を記しているアーサーも道に迷ってしまうほどに木々の生育は異常で、ただのウサギ一匹でも魔力暴走を起こしていれば鳥を地に落とすことだって可能なのだ。
「野生動物が街に出てくる原因」であれば、この森で起きる何もかもが原因になり得る。
考え事をしながら奥地へと足を進めていたアーサーはそこでやっと、普段と違う森の違和感に気がついた。
「静かすぎないか?」
そう言った声も、静寂に消える。
前に訪れた時とは違って、森には小鳥の囀り一つなかった。それでは、本当にこの森から野生動物が逃げ出しているのだろうか? それなら、この森の全ての動物がいなくなったのでないと説明がつかない。
父親曰く『刺激的な魔力』をしているアーサーにとって、荒れたこの森が静かなことは、普段からは考えられないことだった。そもそも五年前に森への出入りを禁止されていたのはその体質が理由だ。魔物を引き寄せる、体質。
「アオーン。」
静寂の中、獣の遠吠えが響いた。
周囲を見まわしたアーサーはそれの存在を強く感じた瞬間、その場から大急ぎで走り出した。
姿は見えないが、その獣はどこかに居る。アーサーは相手の数も所在もわからないまま、ただ相手が自分を追い立てることを直感した。
兎にも角にも同じ場所に留まってはいけない。聞こえる足音から『それ』は大きな四足歩行の動物であることがわかった。
地面から大きく隆起した木の根がアーサーの行く手を阻む。深い霧のためにほんの五メートル先も見えない。苔むした地面にブーツのゴム底を滑らせて、ひっくり返りそうになりながらまた走り出す。
毎日書き出していた地図を思い出しながらアーサーが走り回って、視線の先に光が見えた。森の中のほとんどは木に光が遮られていつも薄暗い。この先に、特別な何かがあった記憶はない。
走り切ったそこに逃げ切るための鍵は存在しないと否定しているが、本能はそこに何かがあると訴えている。
意を決して、アーサーは光の中へと飛び込んだ。
先ほどまで自分を追いかけていた獣の気配を探して背後を振り返れば、お化け森の木々はアーサーが想定していたよりもずっと遠くにある。
理由はわからない。だが気がつけば、この開けた『花畑』の中心に立っていた。
あまりのことに驚く隙もなかった。その花畑はアーサーが夢にまで見た景色だ。
「……あぁ、」
危険に対して警鐘を鳴らしていたはずの頭も、全身に血を流していた拍動も今は息を潜めるように静かになる。五年前と同じままの景色に心が震えて、ため息のように声が漏れ出た。
アーサーは〈毒の花畑〉にもう一度、足を踏み入れた。
踏みしめた土や色とりどりの花に、胸の奥が震える。心を直接、真綿で包まれたような安心感が全身を包む。その美しさに思わず涙が溢れてしまいそうなことですら、五年前と何一つ変わらない。最も美しい一瞬が閉じ込められた情景。
(けれども、どうしてこんなところに毒の花畑が?)
曇天の薄く照らす光でキラキラと輝く花々を見回す。周りに人はいない。
五年前の事件以来、その花畑は見つかっていなかった。アーサーの探索の目的ですらあった場所は、見慣れた植生の場所から唐突に、穴が空いたように現れた。
ここは一体、なんなのだろうか。
ずっとたどり着きたい場所だったはずだ。それがあっけなく、魔物らしき影から逃げていただけで簡単に辿り着けてしまった。
(俺はなんで、この花畑を探していたんだっけ?)
五年経とうと、どれほどローレンスの影を追いかけようと、いまだに実感の湧かない父親の死。もしかして自分は、あの銀狼に対して復讐をしようとでも考えていたのだろうか? 一応は考えてみても、そんなことすらどうでも良いと感じる。
だって、またこの花畑を見られたのだから。
取り止めのない思考が、散り散りになっては蕩けて消える。空間全体が花の甘い香りに包まれていて、のぼせてしまいそうな場所だった。
「こんにちは、赤ずきんさん」
まさか人がいるとは思わず、アーサーはびくりと肩を揺らして背後を振り返った。しかし、そこには誰もいない。一面の花畑が広がるばかりだ。
アーサーは不気味に思って、ホルスターから拳銃を取り出した。
「そっちじゃないよ。すぐ近くにいるんだから、ちゃんと見て?」
音を頼りに花畑の中央へ視線を向け直すも、やはりそこには誰も居ない。どう考えても正常ではないその状況に、アーサーは思わず舌打ちを漏らす。
「くそっ、隠れてないで姿を見せやがれ」
「そう怒んないでよ」
頬をそっと撫でるような、柔らかなそよ風が吹く。
その時、アーサーはようやく目の前に『居た』人の存在に気がついた。先ほどのそよ風は目の前に居る人物がアーサーの頬を撫でた感触だった。
その存在を、ひとりの少年として捉えられなかったのだ。
「お久しぶり、赤ずきんさん」
もう一度言い聞かせるようにして語りかけた男はアーサーの構えた銃口へ手を被せ、やんわりと、しかしはっきりとそれを地面へと押しこんだ。ただの一つの抵抗も許さないと言いたげな仕草だ。
呆気に取られたアーサーをしんそこ愛おしむような目で少年は微笑んだ。花の散り初めに新緑を揺らすそよ風のような、捉えどころのない美しい笑みだった。
「ずっと会いたかったんだ」
「俺は、お前のことなんて知らないけど」
「そう? よく覚えていると思うけどな」
右目を髪に隠しながらも、アーサーの双眸をしっかりと捉えていた少年の瞳が伏せられた。よく見ればその少年には獣のような三角形の耳があり、それは頭の上でピクリと動く。
髪が揺れて、その毛先は極彩色を映し出す。花畑に舞う花弁と同じ色を映し出しては消える色彩を、アーサーは思わず視線で追いかけた。それと同時に、鼻腔を満たしていた甘い花の香りが一瞬にしてたち消え、むせ返るような血液と獣の匂いがフラッシュバックした。
極彩色の花畑、それを照り返す銀色の獣。
この絶望的なまでに美しい輝きを、アーサーは見たことがある。
彼の髪がアーサーのジャケットの色彩を写し込んで赤色に染まったことで、予感は確信めいた絶望に変わる。足元が音を立てて崩れるような感覚だった。
少年がもう一度開いた左の瞳はアーサーの赤い瞳を映し出して血の色のようだ。
「おまえ!」
力を入れて上げかけた銃口を、相手は銃身を押さえつけることでいなす。
少年は困ったように眉を下げて笑う。銀色の虹彩の中で血のようにはっきりと映り込んでいた赤が揺らめいて、炎のようにも見えた。
「やっぱり、『久しぶり』で合ってるよね? はじめましての方がいい?」
「知るかクソ狼。オレは禅問答をしに来たわけじゃねえ。不快だ。とっとと目の前から消えないと、」
言葉が途中で詰まる。近距離で押さえ込まれた拳銃から手を離し、懐からハンティングナイフを取り出そうとした、はずだった。
柄を握ろうとした手は空を掴む。思わず自分の背中に固定されたホルスターへ視線を落としたが、やはりそこにナイフの柄は無い。
頭を暖かいものが包む。それが銀色の少年に頭を撫でられているものだと気がつくのに一瞬の間が開く。その掌に硬い指輪の感触はなかった。
「おれはウル・シオン。きみのお父さんを殺した、『狼さん』だよ」
頭から髪を梳くように離された手を追って目を向けると、アーサーよりも少しだけ大人びた顔つきをした少年——ウルは物憂げにアーサーから視線を逸らし、長い睫毛で銀色の虹彩に影を落とす。
アーサーは声を落として囁かれた言葉の内容から、ウルに掴みかかろうかとも思ったが、そうはしなかった。
胸の奥で何かが引っかかり、どうしてだかそんな気にはなれなかった。
先ほどのやりとりでも、アーサーは条件反射のように臨戦態勢を取ってはいたが、実際のところ、銀の毛皮と獣の耳を持っているからと言って実際に引き金を引いたり、ほかに危害を加える気にはなれていなかったのだ。
ため息を吐き、力を抜いたアーサーに対してか、ウルは笑う。それまでの風のような掴み所のない微笑ではなく、年相応の少年らしい笑顔だ。
「これを言ったら、問答無用で撃たれるかと思ってた」
「ぶん殴ってやりたいと思ってるけど」
(どうしてだかおまえに引き金を引こうと思えない)
そう口にしかけた言葉を、アーサーはぐっと飲み込んだ。警戒をぐっと弱めた自分を認めたくはなかった。
「恨んでる?」
「かもな。五年前、俺は八歳だぞ。『死ぬ』って事自体はわかってても、現実感なんてなかった。……まして、こんな、毒の花畑で」
「こういうお花畑って珍しいんだっけ」
「花畑さえ見つければ、何か父さんの手がかりが見つかるんじゃないかって。本当は、死んでないんじゃないかって」
自分が何を言っているのかわからないまま、理由を口にしていた。
花畑に直面した瞬間、見失いかけていたことだった。
「きみのお父さんは死んだよ」
「ああ。……ここで父さんは死んだんだ」
「狼に、食べられて」
ウルが躊躇うように言った。
そうだ。ローレンスは狼に喰われて死んだ。
「そうだ。……言いつけを破ったから、父さんは食べられた」
「そんなことないでしょ」
「そんなことあるんだよ」
非現実めいていた極彩色の景色が、ウルの銀色に瞬く髪と瞳が、これは現実のものだとアーサーに訴えかける。ローレンスの骨や死体を目にしたわけでもないのに、そういった現実が、アーサーの胸にはストンと落ちた。
ウルと言葉を交わすたびに現実が少しずつ歩み寄って、触れ合ってくるような感覚だった。
「用は果たした。俺は、復讐なんかをしたくてここを探してたわけじゃねえってこともわかった」
アーサーはお化け森へと戻る道へ向き直る。森の調査はまだ終わっていないのだ。
もうこれ以上花畑にいたいとも思わなかった。幻想的な景色だった毒の花畑は、今はただ父親の死んだ場所だという記号しか持たない。それなら、死体の埋まっていない墓にでも参って天に祈りを捧げた方が幾分かマシだ。こんなにも美しい場所で死んで、ローレンスが天に迎えられていないなんて、アーサーは微塵も思わない。
数歩、森へ足を向けると、思い出したように甘ったるい匂いが鼻腔を刺激した。
「おれの用がまだなんだ」
それまでに一度も聞いていない低さを帯びた声音に少し驚いて、アーサーは思わずウルへ振り返る。
いや、振り返り切る前に、ウルの細くて柔らかい指先が、そっと頬を包み込んでいた。
「は、」
唇が触れ合っていることに、アーサーが気がつくのには時間がかかった。
毒の花畑のむせ返るような脳を溶かす甘ったるい匂いは掻き消えて、それでも、軽やかで甘い花の匂いがする。驚いて肩を突き返しても、包み込まれた頬はそう易々と離れない。
ほんの一瞬、数ミリだけ離れた唇は、今度こそ確かな弾力を持って触れ合った。アーサーが思わず漏らした吐息を補うように、ウルはアーサーの唇を舐めあげる。
「なんなんだよっ!」
ウルの長く垂らしていた前髪が揺れて、隠されていた右の虹彩が現れた。
「赤ずきんさん、お願い。狼を殺して」
アーサーの頬を包み込んだままのウルがはっきりとそう告げるも、アーサーは言葉を紡げなかった。
返答に困ったわけでも、唐突なキスのせいで怒りに震えているわけでもない。ただ目を奪われたのだ。周りにいくらでも目を引くものがたくさんあったのに、そこにある素朴な輝きから目を話せなかった。
「春の空みたいな目だな」
「え?」
アーサーの赤色とかち合ったウルの右目は、浅い水瀬のような、あるいは花の咲く春の空のような青色をしている。それまで見ていた非現実的な銀色よりもずっと身近な色だ。
はっとしたようにウルが右目を隠す。
五年前にローレンスを殺した銀狼は、全身を背筋が凍るほどに美しい銀色に染め上げていた。ウルの瞳は左目こそ、その輝きと同じにしていたが、隠れていたもう片方の瞳はただただ、青い。見たのはほんの一瞬だったが、アーサーが見間違えるはずがなかった。
「父さんを殺したの、おまえじゃないだろ。嘘つくなよ」
「おれだよ。嘘じゃない。だから、」
——おれを殺して。
音にならない言葉を呟きながら、ウルがたじろいだように後ろへ一歩引いた。アーサーは詰め寄るようにその両足の間に一歩踏み出す。
問い詰める前に、視界の奥、ウルの背後に大きな影が映り込む。何かを振り上げるような影が、確かに自分たちのいる場所に向かって落ちてくる。
「っ、!」
アーサーはウルの腕を引いた。自分よりもひと回り大きな体を抱き込むようにして地面を転がり、花畑の花が潰れるのも構わずに立て直す。
地面にめり込んだ脚に見覚えがあった。アーサーは視線を上げる。
銀の毛皮で覆われた大きな耳。大きな銀の双眸。大きな牙を持つ口。見間違えるはずがない。
「『銀狼』!」
猟銃を構えて引き金を引いた。ブレスレットの魔力を乗算して拡散する魔法弾はしっかりと銀狼の体を捉えてはいたが、銀狼が意に介する様子はなく、アーサーへ向かって咆哮をあげた。
「逃げて、アーサー」
「嫌だ」
ウルが声音を震わせてそう言った。聞く気はなかった。
幸い銀狼は自分を狙っているようだと、アーサーは息を整える。魔物に狙われやすい性質が役に立ったのは初めてだと内心で自嘲しながらも、迫りくる銀の鉤爪や大きな牙を避けながら魔力を込めて引き金を引く。しかし、銃弾を何発撃ち込だところで銀狼はひるみもしなかった。
手応えがまるでない。アーサーは舌打ちを漏らす。
「くそっ!」
「この聖域で狼に挑もうとする方が無茶な話なんだ。お願いだから早く逃げて、きみまで狼に食べられてしまう」
ウルが口早に説明をする。出てくる単語の一つ一つを理解できたわけではなかったが、今のアーサーが太刀打ちできる相手ではないと説明されたことだけは理解した。
「バカ狼、説明してもらうからな!」
怒鳴りながら銀狼の体躯の下に滑り込み、赤い上着を翻して森へと向かう。
同時に、ウルの手を掴む。驚きに短く声を上げたウルは引かれる腕をそのままに走り出した。
あの時のように、花畑には誰も残したくはなかった。
ばたばたと忙しなく響く二人分の足音に対して、その二人を追う獣の足音はゆっくりとしたものだ。
それでも足音が聞こえる距離は依然変わらず、アーサーは舌打ちをする。
「あいつ! どんだけでかいんだ!」
「この森から出よう、せめて魔力の少ないとこに」
アーサーの体力が限界を告げ始めた頃、息の上がったウルが逆に手を引いて進行路を変えた。
「通れないだろ、そっち」
「信じて」
アーサーが元の進行方向へ引き直した腕をウルは強く握って進路を変える。
ウルが向かおうとした方角には土地に溢れかえった魔力の影響で、巨大に変異した茨の密集地がある。アーサーはそう記憶していたが、ウルは確信を持ったように腕を引いた。
短い逃亡劇の間、アーサーはウルにこの辺りの地理感覚があることを推察していたが、それならば大きな茨についても知らないわけがない。
アーサーの予想通り、森を直接抜ける方角に走って目の前に広がったのは大人の足でも通れない、大きな棘の茨道だった。半ズボンのアーサーや薄い布生地のブーツを履いた程度のウルではそこを通ることは到底無理な話だ。
「ほら見ろ、別の道を……」
「森を抜けたいんだ。通して」
ため息をついて方向転換しかけたアーサーを傍目に、ウルは握ったアーサーの手をそのままに茨の茂る場所へ、真っ直ぐ足を踏み入れた。
「ちょっ! うわ」
「きみたちに祝福を。おれは覚えてるよ」
茨の絨毯へ強い力で腕を引かれて、アーサーが痛みを覚悟した瞬間に足裏に伝わったのは柔らかな芝生の感触だった。
茨が二人を避けるように、がさりと動く。植物が移動するなんてにわかには信じがたかった。自然の理に介入する魔法でも、植物の成長や形質に直接働きかけるようなものは存在しないはずだ。しかし、目の前には確かに茨が脇に掃けてきれいな小道が出来上がっている。
「アーサー、急ごう。茨がちょっとは足止めになるかも」
「なにが……」
「何が起きているんだろうね」
思わず疑問を呈したアーサーに、ウルは呑気な微笑みを浮かべてみせる。背を押すように追い風がアーサーの背中を撫でた。
「ほら、早くしないと追いつかれるよ」
小道は、アーサーとウルが二人でやっと走れる程度の細さだった。ウルの言うように茨の絨毯が銀狼の足止めになるのであれば、都まで抜けることは容易だろう。
銀狼の遠吠えが森に響く。手を繋いだまま茨の小道を駆けながら、アーサーは昔読んだ動物図鑑の一節を思い出していた。
遠吠えは、時々によって色々な意味を持つが、その多くはコミュニケーションの手段だ。縄張りの主張、はぐれた仲間を探すため、仲間との絆を確かめるため。
アーサーを追い立てる様子は縄張りを主張しているようにも見えるが、ここ数年お化け森で猟をしていたアーサーは、今まで一度もその遠吠えを聞いたことがない。
狼は群れで行動する動物だが、あの銀色の狼は一匹だけだ。
普通とは違うことが多すぎて、その遠吠えになんの意味があるのかがわからない。
「あいつ、生きてたんだ。もう五年も経ったし、ずっと見てなかったけど」
自分の思考を、机の上に広げて整理するように呟く。
ただの野生の狼であれば十年と生きないはずだ。それでなくても老いはする。
しかしあの銀狼は五年前も昨日も同じ姿であるどころか、ノンストップで走り続けてもアーサーたちを追い立て続けられるほどの体力があった。老いているようにはとても思えない。
「死んでたらよかったのにね」
俯き、小さく呟いたウルの言葉を、アーサーは聞き取ってはいなかった。