Bamboooth

topimage
神殺し

「なんだ? これは……」

 遠吠えの方角を追って都の自然公園に訪れたアーサーは思わず声をあげた。目の前にありえない光景が広がっていたからだ。

 手入れされて適度に木漏れ日の差し込む明るい人工林は、郊外で放置されたままのお化け森とは違うものだ。整備された白い煉瓦道には街灯も立っている。

 しかし目の前に広がったのは、強い花の香りを運ぶそよ風と、明るく照らされた森一面に咲く、紫がかった青の花だった。昔は原生林に生えていて、アーサーが生まれる前に姿を消したとされる、青い釣鐘型の毒の花。

「なにが起きてるんだ?」

 五年前に見たカラフルな毒の花畑とは違うものだが、確かにそれは視界一杯に広がる極彩色の、毒の花畑だった。

 アーサーはウルとあの獣の銀狼を探して公園の中へ向かう。

 ふと、青い釣鐘型の花がそよ風に揺れた。

「そっちにいるのか?」

 呼び込まれる様にして、歩いた先には、青い花の絨毯が水に濡れて輝いていた。

 公園の中心にあった広場には、白い煉瓦を覆う様に大きな水溜りが曇った空を反射している。噴水が壊されて、蒼の魔鉱石が水しぶきを上げ続けていた。

 乱反射する光の中で、アーサーはふたつの影を捉えた。

 足を止めて、息を飲む。それほどまでに美しい光景だった。二つの影の片方は大きな銀色の狼、もう片方は自分よりも先に屋敷を離れ、銀狼を追ったウルだ。

「なんで此処にいるの」

 ウルの言葉に獣は答えない。

「なんで此処にきたの」

 ウルの言葉に獣は答えない。

「あの森に帰ってよ。……あそこなら、隠れてられる」

 ウルの言葉に、獣は答えない。

 銀の毛皮、銀の双眸を持った銀狼を見上げるウルの瞳は澄んだ空の様に青い。

 それまで悠然と広場の中心に座り込みウルの言葉を聞いていた銀狼が、アーサーに気がついて唸り、咆哮を上げた。ウルが、青と銀の瞳を瞬かせて、驚いた様に声を上げる。

「アーサー? ついてきたの?」

 動いた巨大な体躯に、アーサーは半ば反射で銃口を向けた。銃身に魔力を込めて引き金を引く。確かに銃弾はその影を捉えているのに、銀狼は反応を示さない。そもそも、当たっているのかさえわからなかった。前にこの銀狼を見た時と同じだ。やはり手応えは感じない。

「魔法は効かないよ! 逃げて!」

 ウルの言葉にアーサーは答えない。

 何が起きているのかはわからないが、ウルのおかげでアーサーは自分の銃が効かないことだけは理解した。愛着のある古びた猟銃が傷つくのも構わずに地面に落としながら、アーサーは懐に持っていたハンティングナイフを取り出し、銀狼へと距離を詰める。

 ナイフの刃は間違いなく銀狼の肉を捉えた。

 しかしそれでも一切の手応えがない。向い風に押される様な感覚にアーサーは思わず体のバランスを崩し、その頭上には巨大な前足が迫った。

「いっ、てぇ!」

 体を地面に叩きつけられたアーサーが痛みに喘ぐ。アーサーは再び上から迫るものを視界に捉える。銀狼の腹を足場にし、身体をバネの様に弾いて前足がのしかかってくるのを寸でのところで避けた。

 攻撃が通らない。相手からの攻撃は通る。銀狼の身体は回避行動の足場にはなった。無敵としか言いようがない。ウルが逃げろと言ったことにも頷ける。

 アーサーは体勢を低くして、冷静に銀狼の動きを見据えていた。

 明らかに、あの銀狼はアーサーを狙っている。周りの公園や街灯などは壊されていないのだ。噴水に使う魔鉱石が壊されていたのは、あの蒼い魔力を利用するために壊されたのだろう。

 確かにアーサーは『神を殺した』という血筋の由来故に魔物を刺激しやすく、警戒心を抱かれやすい性質を持つ。だが、それは少し気が立ちやすくなる程度の話だ。無条件に敵意を向け続けられるほどのものではない。ならば何故。

 アーサーが思案に耽りながら銀狼の攻撃を避け続けていると、不意に、乾いた発砲音が響いた。

 甲高い音にほんの一瞬、銀狼の動きが止まる。

 アーサーも思わず動きを止めた。

 音の出所へ目を滑らせる。たどり着いたのは、ウルの手元だった。

「お父さん。もうやめて、もう誰も殺さないで」

 繊細な白い指に握られているのは黒く光る最新式の魔法銃だ。アーサーが極彩色の〈毒の花畑〉で最初に抜いて失くしたものだった。

 全身から血の気が引いて、アーサーは自分が出血していることに気がつく。

 撃たれたのは幸い左腕だ。しかしその腕を上げる気にはなれなかった。腕を伝って、血液が水たまりに落ちた。

「『お父さん』?」

 自分の腕の痛みだとか、それまで好意的に振る舞っていたウルから向けられた銃口だとか、そんなものよりも先に、耳に入った単語を聞き返す。この場で言葉を向けられる相手は、アーサー以外にもう一匹しかいない。

 混乱した頭で呆然としたアーサーは、目の前に迫る鉤爪に気が付けなかった。

「っ、‼」

 アーサーが動くよりも先に、ウルがアーサーの腕を引く。ほんの一瞬、アーサーの赤い瞳とウルの青い瞳がお互いを捉えた。獣の爪が人間の体を叩く。小枝を踏んだ様な、高い音が響いた。

 五年前に聞いたことのある音だ。

 どうしてだか、アーサーには覚えがある。ローレンスではない誰かに助けられた記憶。

「バカ狼!」

 弾き飛ばされて人工林の木に叩きつけられたウルに対して声を上げるが、ウルが気に留める様子はなかった。獣の様に低い姿勢を取って、瞬く間に元いた場所に戻る。

 ウルは銀狼の前に立ちはだかった。いいや、アーサーの前にウルが立ちはだかった。銀狼に背を向け、ウルは左右で違う輝き方をする目でアーサーを見つめる。

「たすけて」

 確かに聞き覚えのある声だった。

「狼を殺して。お願い」

「おまえ、」

「おれはきみの血液を浴びたら存在ごと消える。少なくとも『銀狼』は耐えられない。そのはずだ。銀狼は、〈神殺し〉で殺せる」

 ウルが言っているのはローレンスから聞かされ続けた、毒の花畑の次によく聞いた御伽噺のことだと、アーサーはわかった。

 ローレンス曰く、「ご先祖様は神を殺した。だから、魔物たちはその魔力を警戒する」といったものだ。ただの伝説だ。森の野生動物とも触れ合えない自分の気を休めるためにローレンスが家に伝わる古い書物を持ち出したのだと思っていた。

「あれだけの血を大量に飲み込めば、本当は毒になって、お父さんだって死ぬはずだった」

 よく見ると、血にまみれたアーサーの手を掴んだウルの右手は皮膚が赤くなっている。拳銃に込められていたウルの魔力が活性を失っていることからも、言っていることは本当なのだろうと、不思議なほどにストンと胸に落ちた。

 アーサーはウルの青い瞳を見つめる。まるで銀狼とは思えない、固有の色を持った春の空の色だ。

「銀狼は、普通じゃ死なないのか」

 ウルが頷く。

「お願い、助けて。あんな獣知らないんだ。優しくて、おれの頭を撫でて、笑ってくれる、あったかい、おれのお父さんだったんだ。

 ……おれを殺して、お父さんを助けて」

 最初からただの自殺願望ではなく、父親を追いかけようとしていたのかと、アーサーは妙に納得していた。

 アーサーが聞いた御伽噺が事実かそうでないかは別として、ただの銃で効かないのなら確かに試す価値はある。あるのだろう。本当にウルが言った様に、『同じ紅茶』なのならば。

 銀狼を庇う様に立ち塞がっていたウルの背後に銀色の鉤爪が迫っているのを、アーサーは視界に入れた。

「……おい」

 ウルの胸ぐらを引き寄せ、ウルの居た場所には銀狼の鉤爪がめり込む。赤く腫れ上がったウルの右手から拳銃を抜き取り、アーサーは低く唸る様にその銃口をあの大きな 銀狼へ向けた。

「誰を狙ってる?『神殺し』は俺の方だぞ」

 銀狼はくぐもった声で吠える。

 捉えた銀の瞳は濁っていた。確かにあったあの美しさは姿を潜め、今はただの獣の様に森を走り、木々を跨ぎ、また広場へと戻っては警戒をあらわにする様に吠え散らす。

 森に広がっていた花畑が大きな獣の脚によって荒らされ、その花々を舞い散らせては瞬く間に新たな花を咲かせていた。異様な光景だ。

「このバカ狼はあんたの子供じゃねえのかよ、銀狼」

 そう投げかけた言葉にも反応はない。当惑するウルの手を引きながら、拳銃で木の枝を狙っては葉を散らす。効率もへったくれもあったものじゃあないが、全力で走って真っ直ぐ猟銃を取りに行くよりは幾分マシな時間稼ぎだ。

「おい、クソ狼」

「えっ、おれ? お父さん? どっち?」

「お前だバカ。俺の頭を突くのがよほど気に入った様で何よりだ」

 とぼけた反応を返すウルにアーサーは舌打ちをする。暴れまわる銀狼の動きを避けながら落とした猟銃へと向かっていた。拳銃をホルスターに収めたアーサーは白いレンガ道に落ちた古い銃を、蹴り上げ、空いた右脇に抱える。

「お前は銀狼で、あいつも銀狼なのか?」

「うん? そうだよ」

「お前は、俺の血と魔力で死ぬのか?」

「うん。いま、きみが引いてる右手だって、痛くて仕方ない。その血に魔力をこめてしまえば、きっとひどい激痛だ」

「あいつは、正気じゃないんだな」

「……そうだよ。五年前、お父さんは急におかしくなった」

 青い花の絨毯が広がる人工林に錯乱した様な鳴き声が響く。巨大な体躯が地面を揺らしながら木々を傷つけ、ウルを狙って牙を剥く。

 先ほどの発砲音でウルをアーサーと誤認したのだとしても、それまではアーサー以外、森の木々にすら一切の手を出さずにウルの声を聞く様に悠然と座り込んでいたあの理知的な生き物が、たったそれだけでウルを狙い続けるとは考えづらい。

 アーサーはあの大きな銀狼が暴れだす直前の濁った瞳を思い出す。せき止めていた狂気が押し寄せた様な、淀んだ光だった。本来の輝きも、理性も感じさせない曇った色。

 銀狼が咆哮を上げ、蒼の魔鉱石から飛び散り続ける水飛沫が震える。魔鉱石まであと数歩。

「狩りを終わらせよう。バカ狼」

 血で滑る左手で掴んでいた腕を引き寄せる。ひと回り大きな体を抱え込んで、白いレンガの地面に叩きつけた。壊れた噴水の残骸に背を打ち付けたウルは痛みで一瞬表情を歪めたが、アーサーは気に留めずに血で汚れた左手でウルの前髪を上げた。

 殺されると思ったらしいウルは満足げに微笑んだ。

(やってられるか)

 柔軟な体をしならせて大きくジャンプした銀狼が、大きく口を開いてアーサーの背に迫る。

 アーサーは銀狼の上顎を開脚で蹴り上げ、猟銃ごと下顎を踏みつけて固定した。ハンティングナイフで、脈打つ左腕に穴を開ける。

「アーサー⁉」

 左腕は今度こそ大きな血飛沫を上げた。痛みを無視することなどできないが、流れ出す血液と、下顎を押さえ込んだ猟銃の二箇所に魔力を集中する。

——水は万物の祖、還れ。地は人間の祖、満たせ。炎は知性の祖、溢れろ。交われ!

 猟銃の下にあった魔鉱石が反応して蒼い光を放つ。

 アーサーは銀狼に進んで喰われようとは思えないし、銀狼を抑えるのにアーサーの血液を必要とするのなら、この巨体の銀狼を覆うほどの血液は存在しない。

 ただ、五年前にあの花畑で自分を突き飛ばして銀狼から命を守った人間を、殺そうとは思わなかった。たとえ代わりに正気を失った彼の父親を目の前で殺すことになろうが、失敗すれば自分も死ぬ可能性があろうが。

 ——いいや、それさえもアーサーの中での自己弁護に過ぎない。

 ただ、アーサーは苛立っていた。死にゆくものの運命を受け入れずに自分から追いかけようとする奴のことを、アーサーは肯定できない。一人でも生きてきたアーサーにとって、それは受け入れられないことだった。

 蒼の魔鉱石から水が溢れ出す。流れ出たアーサーの血液と繋がり、空中に浮かぶ水の粒はおびただしい量の血液へと変貌する。

此処を満たせ、彼方に場所はない。其処で飛沫となれ。——燃え上がれ!

 魔法銃の機構に組み込まれた紅の魔鉱石が乾いた音を立て、周りの血液の赤と共鳴する様に、巨大な炎となって燃え上がった。

 上顎を支えていた脚を下ろして距離を取る。アーサーは失血による吐き気と目眩を抑えながら地面に転がったままのウルの服を掴んで引きずった。

「……お父さん」

 ウルは燃え上がる血の炎を見て、小さな声で、ほうけた様に呟く。

 拡散を続ける魔鉱石が水飛沫へと戻る。燃え上がった血と魔力は全てを使い果たし、炎は霧へと変わる。

 大きな銀狼がいたそこには、なにも残らなかった。

 それまでどうにか立っていたアーサーは気が抜けてしまって、緑の芝生へ倒れ込んだ。

おぼろげな視界で辺りを見回すと、先ほどまで広がっていたはずの青い毒の花畑は消えている。あれは幻だったのだろうか。

 気がついたウルがアーサーの体を心配する様に抱きかかえ、呼びかけるが、アーサーはそのまま意識を失った。

「ねえ、ローくん。なにが『大丈夫』なの?」

「え? 不思議な質問をするなぁ。なにかが心配かい?」

「そうじゃないよ。安心するけど、いつも言ってるから。不思議なんだ」

「ふふ。今のきみに言って、伝わるのかはわからないけれど」

「言ってよ、聞きたい」

「そうだなぁ……。そうやってきみたちが安心してくれることは、僕が安心して、精一杯頑張れるってことなんだ」

「だから僕は祈りを込めて、『大丈夫』だって言うんだよ」

 天井には蜘蛛の巣が張っていた。煉瓦造りの家に風が通って、シーツを取り去れば肌寒ささえ感じる。寝るときでさえ手放さなかった赤いジャケットが手元に見当たらず、アーサーが視線を上げると、春の空の色をした瞳と目がかち合う。

「起きた?」

 ウルからアーサーへかけられた言葉は、穏やかなものだった。

 幼い頃に抱いていたテディベアが夕暮れの黄色い雲の光を浴びている。

 少し埃っぽいマットレスに全身が沈みこむ感覚は今の疲れ切って傷ついたアーサーの体にとっては十分に心地よい。ずっと窓際のソファで眠っていたから、久しぶりの感覚だった。

「子供部屋っぽかったからこっちに連れてきたんだけど、もしかしてずっと使ってなかった? 広間以上にすごい埃だったから、窓開けちゃった」

「……なんでだ?」

 ウルは問われていることを理解しなかったのか、「うん?」と小首を傾げて、また穏やかに話し始める。

「あ、ごめん。アーサーの財布、勝手に借りちゃったんだ」

「そうじゃなくて」

 わからなかった。

「おれは『おまえ』じゃなくて、おまえの父さんを殺したんだぞ」

 ベッドサイドに置かれたボウルの上にはしっかりと焼き込まれたジャケットポテトにバターが添えられており、ボウルの隣には調味料が所狭しと並べ立てられていた。

 アーサーは気怠い体を起こして袖を捲る。大量に出血した事による体調の悪さは少し寝たところで誤魔化しようがなかったが、魔法銃とナイフで傷ついた左腕には包帯が丁寧に巻かれていた。瓦礫や森の小枝で切った小さな傷にさえ、部屋の埃の匂いに混じって、微かに薬草の匂いがしている。

「あぁ、なんだ。そんなこと」

「そんなことって」

 事も無げに言うウルにアーサーは瞠目する。

「アーサー。おれを殺したいと思う?」

「思わないよ。おまえは、なにもしてないだろ」

「じゃあ、おれのお父さん。……あの大きな銀狼を『殺したい』と思って殺したの?」

「……いいや」

 べつに、殺したかったわけじゃない。ただ、必要だった。

 かぶりを振ったアーサーの頬を包みながら、ウルは笑う。そよ風の様な微笑みだった。

 ウルは銀と青のふたつの色でアーサーの視線を捉える。様々な色を写し込む銀色の瞳の中にはやはり様々な色が写り込んでいたが、青の瞳は澄み切った春の空の様な色で、じっと深く、アーサーを見つめるだけだった。

 ローレンスを殺した銀狼を、わざわざ殺したいとは思いもしなかった。それは最初に極彩色の花畑で結論づけたことだ。

「殺して」と言われて、ウルを殺す気も毛頭なかった。しかし、それはただの苛立ちが理由だ。アーサーは実際のところ、あの大きな銀狼を殺すことでウルが死んだり消えたりしてもおかしくはないと思っていたのだ。

 ローレンスを失った時、レンやイオンが目の前から姿を消した時、それ以外にも助けようとしてくれる人間や気遣ってくれる人間は何人か居た。ウルが自分の父親もろとも死のうとしていたことは、一人で平気だと意地を張り続けた自分を否定される様な心地だったからであって、決してウルの命を尊んだわけではない。

 そんなことでいいんだろうかと、アーサーの頭には疑問が生まれる。しかし目の前で笑うウルは驚くほどに穏やかだ。

 ともすれば、ただの人殺しじゃないか。

 自然と、二人の間に長い沈黙が訪れた。

 ずっと見つめ合って、不意にその沈黙は途切れる。

「う、わっ!」

 頬を包んでいたウルの手がアーサーの肩を押したのだ。アーサーの体がマットレスに沈み込む。視界に入ったのは天井に張った蜘蛛の巣ではなく、銀の髪だった。

「急に、なに……、」

 軋む体にウルの体温を感じる。青い瞳が視界に入る。

 息を飲んだアーサーの唇が、ウルの熱い舌に舐めあげられた。獣が慰める様な仕草だと、なすがままになっていて思った。触れ合った唇が熱い。不思議と嫌悪感はなかった。

 慰める様に唇を舐めあげていた舌はいつの間にかアーサーの中へと入り込み、呼吸同士が絡み合っていた。

 これじゃあまるで愛し合ってるみたいだ。どうしてこんなことをするのだろう。疑問に思うが、口に出すことはできない。唇を何度も触れ合わせて、アーサーが息苦しさに目を開けるとウルの青い左目の輝きが目に入る。

 不意に、頬に水滴が触れる。耳まで伝ってシーツに流れ落ちるそれは、見上げた先、ウルの両目から溢れた涙だった。

「救われたんだ」

 アーサーが目覚めてから、ずっと穏やかに微笑んでばかりいたウルの表情が歪む。獣の形をした耳は垂れ、数ミリで触れ合うほど近くにある呼吸は震えていた。

「殺しただけだ。救ってなんかいない。殺しが救いになるかよ。俺はただの猟師だ」

「尊厳を、守ってくれた。本当に、助けてくれたんだ」

 ウルがアーサーの肩口に身を寄せ、肩を抱きしめた。アーサーは左腕の痛みに眉を顰めたが、その腕を振り払おうとは思わない。

 少しの沈黙が二人を包んでいた。

 泣いているのかとも思ったが、涙は流していない。小さく震えていたウルの体は止まり、彼が開いた窓からそよ風が吹きこんだ。

「あのね」

「……なんだよ」

「ローレンスが死んだのは、本当に、おれのせいなんだ」

「ああ」

 告白する様に、ウルがぽつり、ぽつりと言葉を発する。

「おれ、きみを呼んだんだ。五年前」

「ああ。知ってる」

 青い毒花が咲き乱れた公園で、ウルはアーサーに『助けて』と言った。アーサーにとっては聞き覚えのある声だった。声変わりをしたのだろう、高さこそ違えど、五年前に夢の中で聞いた声と、同じものだ。

「実際は、ローレンスときみを、〈神殺し〉の血を呼んでたんだ。苦しそうにしてるお父さんをなんとか、したくて」

「……俺の父さんも探してたのかな、お前を」

 言うと、ウルが肩口に頭を擦りつける。

 あの日、普段は余程の急務でなければ前日の時点で仕事に出かける旨を伝えていたローレンスは朝になって突然仕事だと言って出かけたのだ。そして、あの花畑で会った。そこに偶然はないだろう。少なくとも、アーサーはそう思った。

 アーサーの言葉に返答はなかった。そして、ウルは再び口を開く。

「五年前のあのとき、きみを突き飛ばして、……」

 飲み込んだ言葉をごまかす様に、アーサーを抱く腕に力が込められた。しかしアーサーが望むのは沈黙ではない。

「代わりに、おまえが木に叩きつけられた。父さんはおまえを庇ったんだろ」

「……うん」

 ウルの代わりに、アーサーが続きを口にした。

「想像がつく。優しいひとだから。向き合わなくちゃならないものは絶対に目を離さないひとだから」

 ——たぶん、気が付いていた。

 あのとき、ローレンスは銀狼から背を向けて「守る」と言ったのだ。時間を経ておぼろげになっていく記憶の中で、アーサーはその言葉を強く記憶している。

 天井に張った蜘蛛の巣が窓から入る風に揺れた。アーサーの体にのしかかるウルの体重は決して軽いものではなかったが、苦しいとも思わなかった。ローレンスのいない屋敷はなんとなく居心地が悪くて、ずっと集会所や森の中に籠もって花畑を探し続けていたというのに、久しぶりに体を沈める埃っぽいベッドはとても心地よかった。

 アーサーは、右手を動かす。抱きすくめられた腕は天井に向けることもできなかったが、ウルの体に回すには十分だった。

「父さんが守った奴を俺が殺さなくてよかったって、ちょっとだけ思うよ」

「……そっか」

 視界の端で銀の髪が揺れる。三角形に立った獣の耳はピクピクと動いて、肩口に当たる呼吸と、全身を包む暖かい体温は確かに父親を殺した『銀狼』のものなのだろう。

 窓の外では雲が晴れる。浅い水瀬の様な、穏やかな青空だ。