雨粒が葉を叩く音が聞こえていた。
じっとりとした雲がかかり、朝から雨が降っては止んで、落ち着いたかと思えばまた降り出す。
街路の赤煉瓦は舗装された当時よりもほんの少し沈み込んで大きな水たまりになっており、運河のようにも見える。淡い色の花弁や薄い広葉樹の葉は地面に落ちて、ゆらり、ゆらりと穏やかに浮かんでいた。
落ち着きのない空模様にアーサーは苛立ちながら水たまりの水面を蹴り上げ、出かける前に書き出したメモを取り出す。
「適当に一週間分の野菜をくれ」
アーサーは色とりどりの野菜が並ぶ八百屋を訪れていた。
数日間森に籠もっていただけなのに、空全体に光を広げる雲や光を反射した水たまりが目に染みるようだ。
チカチカと明滅する視界に、アーサーはほんの少し顔をしかめる。
八百屋の店主が店の奥から現れて、豪快な笑みを浮かべる。店主はいつも通りのメモを特に確認するでもなく、大きな声を上げて商店の裏にいるらしい従業員に声をかけた。
「アカちゃん、久しぶりだな!」
「はあ? そうでもないだろ」
せいぜい一週間ぶりほどで久しぶりだと言われたことに、アーサーは心底意外に思ってぶっきらぼうな声が出た。
自力で獣を狩れるようになってからは、ずっと森に籠もっていることも多かったのだ。
今日だって、安息日だからやっと森を出ようと思ったところで、結局は家でケーキでも作ろうかと考えていただった。
商店の裏で重い木箱を動かす音を背景に、明朗な主人は大きな体から想像のつく太い声で朗らかに笑い上げた。
「体感だよ。ずっとウルが一人で野菜買いにきてたから」
「は? バカ狼が?」
「毎日下手くそなサンドウィッチを見せに来てくれてたよ。ちょっとずつマシになってて、上手くなったらアカちゃんに食わせるんだとさ」
「上手いも下手もあるのかよ、それ」
あいつはサンドウィッチすら作れなかったのか、とアーサーは内心で驚いていた。
ウルが一人で料理を準備したのを見たのは一度きりだ。
自然公園で銀狼と対峙してアーサーが倒れた後、ウルはシンプルなジャケットポテトを用意していた。ジャガイモを焼いて調味料を適当にかけるだけで完成する料理だから、あの時は料理の上手い下手なんて気にもしなかったが、そもそもウルはどれほどの料理を知っていたのだろう。
そもそも、アーサーがジャケットポテトという料理だと思い込んでいただけで、実際ウルがその料理名を知っていたのかはわからない。
成り行きでウルが家に居座っていた間に知った限りでは、小さなナイフ一本でウサギを捌けることは知っていた。手に馴染んだナイフを持っているようだったが、それだけだ。
調理器具の一切には、ウルは殆ど触れようとしなかった。
一般家庭でもよく作られているケーキも知らなかったな、とアーサーは思い出す。
『親』があの銀狼だったとして。ウルはアーサーのように都に住んでいたわけでも、何かと世話を焼こうとする大人が周囲に居たわけでもない。彼は森の中、あの極彩色の花畑に住んでいたのだから。
——アーサーはそこまで思考を巡らせて、止める。
「ユニオンホールに寄ってやりな。フカフカのベッドが恋しいって耳垂らしてたぞ!」
「……ったく。俺はあいつのなんなんだよ」
野菜を受け取ったアーサーは自宅へと向かい、綺麗に磨き上げてから一週間弱空けただけの家は、どこか埃っぽく淀んだ空気を感じさせた。
気分屋な空に眉をひそめつつ、アーサーは窓を開け、小麦粉と調理器具を手に取る。
ミルク、砂糖、卵にレモンジュース。森で摘んできていたベリーとハーブ類の取り揃えを確認し、鼻歌混じりに透き通ったガラスのボウルを棚から取り出す。
キッチンで適当な菓子を手際よく作り上げたアーサーの足は、自然とユニオンホールへ向かっていた。
気分屋な天気と安息日であることも相俟って、久しぶりに訪れたユニオンホールの玄関口は閑散としていた。個人の商店はともかく、他の仕事で安息日に働くのはよほど信心のない奴か仕事中毒の奴くらいだ。
玄関口の隣には民間からの仕事の依頼が並ぶ大きな掲示板があり、飲食店のように所々机の並ぶ玄関ロビーの奥には古びた木製のカウンターと、上下にわかれる階段があった。
物心ついた時からずっと変わらない景色に、受付の奥には物心ついた時からずっと変わらない、穏やかな微笑みが待っている。
「カルム」
「お久しぶりです。アカちゃん、おかえりなさい。今日もお仕事を?」
「寄っただけ。っていうか、お前も『久しぶり』って言うのかよ」
「ふふ、すみません。ここのところ毎日、ウルくんが来ていたもので。先週は一緒に来ていたじゃないですか」
アーサーはじっとカルムを見た。口では謝りこそしているものの、眼鏡の奥では落ち着き払った青い目が弧を描き、笑っている。
「勝手について来てたんだよ」
その穏やかな視線が、アーサーにとってはなんとなく居心地が悪くて視線を逸らす。
手作りの菓子を詰めたバスケットの中身の数々を彼が使役する妖精に覗き見られやしないだろうか? アーサーは気恥ずかしさを誤魔化すように視線を彷徨わせる。
「そのアホ狼、今日も来てるのか?」
「来ていますよ。どこにいるかまでは……。妖精とにゃんこに聞いてみましょうか?」
「いや、いい。自分で探す」
ユニオンホールの玄関ロビーを抜けて奥へ向かう間際、古びた木製のカウンターに、アーサーは小さな紙袋を置く。
「なんですか?」と問いかけるカルムと視線を合わせないまま、アーサーは答えを返さずに上り階段へ足をかけた。
思えば、五年前こそよくローレンスと一緒に菓子を作っていたが、一人になってからはユニオンの面々に差し入れを届けたことは一度もなかった。
アーサーは二階へと続く階段を登っていた。人の流れやすい玄関ロビーを見るよりも、先に二階の大ラウンジを見た方が早いと踏んでのことだった。
『ユニオン』は、民間で構成される団体の中ではかなり大規模な組織であるのとは裏腹に、ユニオンホールという施設自体が巨大なわけではない。
そもそもの主な役割が仕事の仲介と、そのための面談施設を最低限必要としているだけで、ユニオンホール自体に長く滞在する人間は多くはない。それこそ、長い間専門魔法士としてユニオンに在籍してカルムやユニオンマスターと親しい仲になるような者か、よほど仕事を待つしかない者くらいなのだ。
「バカ狼?」
小声でウルのことを呼びながら、アーサーは二階の広いラウンジへと顔を出す。専門魔法士にしては幼く、珍しい顔に一瞬視線が集まりこそしたものの、アーサーの昔馴染みの見知った顔は殆どおらず、視線はすぐに外れてそれぞれが会話へ戻った。
居ないのか、とアーサーは肩を下ろし、通りがかった人間に声をかけた。
「ごめん、ちょっと。人を探してるんだ。ウルって奴なんだけど」
「あぁ。お父さんを探しているのかい? お仕事に来てるなら受付の兄さんに聞いた方が早いと思うよ、案内しようか?」
「……」
アーサーはその魔法士にバカにされていると感じた。一瞬で気分を害したアーサーは正直会話したくないとさえ思ったが、舌打ちを我慢してウルの特徴を言葉に整理する。
「頭に三角耳生やしたバカみたいに綺麗な顔の奴、見なかったか?」
「えっと? 多分、見てないな」
「そうか。ありがとう」
社交的で明るい性格のウルのことだ。カルムと親しくしている様子からも、せいぜいラウンジで見知らぬ魔法士と打ち解けあっているものだと思ったが、どうやらそうでもないらしい。
ウルの全ての美醜がどうでもよくなってしまうほどに完成された造形は、幼い頃のアーサーがいかに完璧な造形を見慣れていても目を留めてしまうほどのものだ。他の魔法士と打ち解けていないのであれば、遠巻きに見られて噂にでもなっているだろうと思ったが、そんな様子すらない。
大ラウンジを一通り見て回り、別の部屋へ出ようとしたところでアーサーは知らない魔法士から声を掛けられた。
「そこの赤い服の子! さっき聞いたんだけど、人を探してるんだって?」
その青年はアーサーと視線を合わせず、頭よりもずっと下へと視線を下ろして眉を下げ、いかにも自信がなさそうだった。
「多分、『すげー綺麗な顔した奴』なら上に行ったと思う」
上、という言葉を理解するのに、アーサーは時間を要した。
なにせ仕事を仲介されるにあたって使われるのはこの大ラウンジと玄関のロビーくらいなものだ。地下へ向かう階段が何に使われているのかアーサーは知りもしないし、所属する大半の魔法士はそうだろう。
その男は中空で指で丸を描いてラウンジの片隅にある扉へと目を向ける。その先は誰も使わないために壁を飾るカーテンの影に隠れてしまっている、小さな扉だった。
「……吹き抜けの物置の事?」
「入るの見ただけだから、今も居るのかは分からないけど」
「いや、まだ確認してない。ありがとう」
アーサーが感謝を述べながら男を真っ直ぐに見つめると、青年はやはり自信なさげに曖昧に笑って視線を逸らす。
「そんじゃな。まだちっこいんだから、他の奴に踏み潰されないように気をつけて」
彼はアーサーの頭をかき回すように撫で付けた。手首にかかったシンプルなバングルが、頭にコツコツと当たる。青年はそのまま、書類を片手に階段へと向かった。
「っちょ、そんなに小さくないって!」
酒の匂いから少なくとも自身より五歳は離れているだろう。
身長が小さい事を指摘されたことで憤りに声をあげたアーサーはまた自身がなさそうな顔が振り返ると思ったが、青年がその期待に応えることはない。
小さく背を丸め、此処にいるのが恥ずかしいとでも言いたげな、頼りない背中だった。
その場を立ち去る彼の手に持たれた書類は、アーサーが普段請け負う肉体仕事とは似ても似つかない。拾えた単語はほんの少しだけで、専門的な用語と精密な図面が描かれていた。
少なくともアーサーには手に負えないほど繊細な魔法技術を要求する仕事だろう。魔法士の仕事は多岐に渡って、アーサーは狩りが得意というだけだ。
「……もっと堂々としてりゃ良いのに」
曲がった背中を不思議に思いながら、アーサーは吹き抜けの三階へ通じる階段の扉へと足を向けた。
大量に溜まった埃は、この階段がいかに放置されていたのかということを表している。
長く放置された埃っぽい階段をよく見ると、足跡が見えた。階段の先には、また小さな扉がある。ライトが付いていることからも、誰かが出入りしたことは確実だ。
他の魔法士に物置と言われていた三階の吹き抜け部分には、ローレンスの秘密基地があった。ローレンスと親交の深かった魔法士が茶菓子を持ってきて、秘密のティーパーティーを開いていた場所だ。
ローレンスが亡くなってからは、誰も寄り付かなくなった場所でもある。
「……バカ狼?」
なんとなく気恥ずかしくて、先ほどと同じように小さな声でウルへ呼びかけながら、アーサーは静かに扉を開く。
二階の採光のために大きく取られた吹き抜けと窓は、三階の床も眩しく照り付けていた。薄暗い階段から一気に明度の上がった視界に、アーサーは思わず目を瞑る。
「うん?」
返事をしたのは軽やかな声だった。聞き惚れて思わず立ち止まってしまいそうな端正な声。しかしウルのものとは違う声。
まるで真逆の存在感だ。
アーサーは、思わず目を奪われて離せない。そこから逃げ出したいと、アーサーは間違いなく思った。
それでも足が動かなかった。目を奪われてしまっていたからだ。
鼻筋の通った美しい顔貌に夜明けを告げるには深く鮮烈すぎる暁ぎょうこう紅の瞳。夜の空を塗りつぶす都会の闇のような、艶やかな黒髪。
「……レン?」
「ァあ? ンだよ、ガキ。なんで愛称知ってんの? 超絶キュートで最強だったオレ様なら兎も角、何もできねぇガキがなんでそんな偉そーに呼び捨てしてんだよ。
あーあーあー。ココには誰も入んなって、聞いてなかった?」
ソファに深く座り込んだ青年は、捲し立てるようにコロコロと態度を変えてみせては早口で話しながらケーキをフォークで抉り取った。不快を態度で示しながら青年は甘いケーキを口に入れる。吊り上がった暁紅の色を嵌め込んだ深い紅の視線でアーサーを睨め付けた。
「ま、いーや。そんで何の用? オレ様の『秘密基地』なんだけど、ココ」
アーサーは、睨みつけられた視線から逸らすように埃の溜まった床を見下ろした。咄嗟の事に声が出なかった。いつもどれだけ息が上がっても魔法銃のグリップは握りしめているはずなのに、バスケットを持った手が震える。
闇を溶かしたような漆黒の髪と深い紅色の瞳。この場所を『秘密基地』だと言ったその青年が、あの気弱だったレンであることを再認識する。
今日は一人だ。今日も、一人だ。
あの日、あのあと、アーサーはレンになんと言われたか。
——「アカちゃん、もういらないよ」
存在を魂に刻みつけてくるように甘やかな声で、囁かれた言葉はなんだったか。
——「アカちゃんは、何もしなくていい」
息が上がる。ただそこにいるだけなのに、その場で溺れそうだった。
——「アカちゃんは、何もできなくていい」
この数日、アーサーはどうして森に籠もっていたんだったか。一週間前に聞いた、ケーキ屋の主人の言葉があったからだ。安息日に大量のケーキの発注……。何十人分とある砂糖の塊みたいなケーキを蕩けるような満面の笑みで美味しそうに頬張る横顔が、アーサーの頭の中でリフレインしていた。
一週間前に買って帰った豪華なレモンドリズルケーキを、ウルがどんな表情で食べていたのかが思い出せない。確かに美味しく食べてくれた筈なのに、それを思い出せない。
気が付けば、アーサーはやっと動き出した足でその場から駆け出していた。
「ごめんね。ごめん。……ごめんなさい」
「もう謝るな。お前の所為じゃない。」
「けど、だって、僕が守れなかったから。僕だけが、力を持っていたのに、守れたのに」
「違う。ああするしかなかったんだ。お前は悪くない」
「だったら、何が悪いっていうの? 僕が悪くないなら、誰がローくんを殺したの?」
「何も悪くないんだよ。どうしようもなかった。これは、運命なんだから。」
「運命なんていらない」
「いいだろ、もう。」
「ローレンスを殺す運命なんていらない……ああ! 壊しちゃえばいいんだ!」
「レン?」
「ねえ、それならもう全部いらないよ。『大丈夫』」
「あぁ、アカちゃん。ウルくんには会えましたか?」
ケーキを猫と分け合いながらつまんでいたカルムは、奥の階段から響いた足音に視線を上げて尋ねる。
しかし、返ってくると思っていた返事はない。まさか無視をされるとは思わず、カルムは驚きを隠すようにメガネをかけ直す。いつも炎のように赤い瞳を真っ直ぐ向けて声をかける彼らしかぬ行動だ。
「アカちゃん?」
カルムはカウンターから身を乗り出して、もう一度伺うように問いかける。
だが、俯いたアーサーはカルムの姿を視線に捉えないまま外へ走り出した。
「ねえ、大丈夫ですか? ちょっと、」
ただならぬアーサーの空気にカルムは足を伸ばしかけたが、多くの契約書を保管するユニオンホールのカウンターから離れるわけにもいかず、理性が歯止めをかける。
「スプーキー=シャドウ、アカちゃんを追いかけてください」
せめてもと、カルムは手に持っていた砂糖の塊——アーサーが渡したレモンドリズルケーキのアイシングを砕き、砂糖菓子に注ぎ込んだ魔力を介して彼の使役する妖精へ向かって声をかけた。
「——……」
「スプーキー=シャドウ?」
だが、その声は聞き届けられない。
スプーキー=シャドウは元々悪戯好きの妖精だ。だが、普段は数百キロ離れた場所にまで伝言を預かってくれるほどカルムとは深い仲だった。そのスプーキー=シャドウが、カルムの声に応えない。
動揺したカルムが猫の視線の先を追うと、ふわりとそよ風が頬を撫でた。
そよ風だと思ったそれは、風ではなかった。カルムが隣に居た存在を一人の人間として捉えられなかったのだ。
「アーサー、どうしたの?」
しかし聞こえた。ウルの声だ。
瞬きののち、やっとのことでウルがカウンターの横にまで走って来ていたことを知覚する。左目を覆っていた艶やかな銀の前髪が揺れ、その隠された瞳の光を露わにしていた。
「アーサー! 待ってよ!」
現実離れした光景を見て驚きに目を瞬かせるカルムを気にも留めずに、ウルはアーサーを追って外へ走り出した。カルムはそれを視線で追うことしかできない。
数人の魔法士が居たエントランスは、駆け出した二人の少年の様子にほんの少しざわついたが、やがて元の穏やかな喧騒に戻る。
カルムはカウンター正面の玄関扉から視線を外さないまま、腕を組んでその中に顔を沈めた。すると、猫がカルムの頭の上に乗る。
「……スプーキー=シャドウ。いますか」
「やあ、ゴメンね。心配かけたかな」
やっと聞こえたスプーキー=シャドウの声に、カルムはホッと息をつく。
「先ほどは何が?」
「君との繋がりを隔てられた。聖霊がジャマをしたんだ」
「こんな街中で、魔力の干渉を受けない聖霊が居るんですか?」
「聖霊は〈世界の法律〉のモノだからね。君のお祈りよりも法律の方が強かったってだけさ。パン屋も警察の前でオマケはしないでしょ」
「世界の法律、ですか」
カルムは法律という単語から別の心配事を思い出して、思わずため息をつく。
「アカちゃんのあの様子、きっとレンくんですよね」
レンは、三階にある吹き抜けの物置に朝からずっと篭っていたはずだ。ならばウルを探していたアーサーは、そこを訪れたのだろうか。
遺品となったローレンスの私物を取り出すときすらも他の魔法士に任せ、この五年間寄り付きもしなかったあのローレンスたちの『秘密基地』に、アーサーはウルを探して訪れたのだろうか。
「カルム、キミは追いかけなくていいの?」
「……僕は待つことしかできませんよ」
ユニオンでの職務とは別に、カルムにはアーサーを追いかけられない理由がある。
カルムは、アーサーとレンたちが仲違いしていることを知っている。あの子たちが互いに持つ誤解と「おそれ」の内容の全てを知っているわけではないが、カケラも知らないわけでもなかった。妖精は、このユニオンホールを離れないカルムの目と耳として、様々な場所の情報を集めてくるからだ。
しかし、だからこそ今カルムがアーサーを追いかけるわけにはいかない。それを行うのは一人であることに拘っていた彼の心に立ち入ったウルや、心から信頼しあって、恐れ、ぶつかり、守りたいと願う友人たちだろう。
「……けど、待つことはできる」
カルムは、アーサーが置いて行ったレモンドリズルケーキの最後の一口を頬張った。甘いアイシングでコーティングされたケーキは、酸味の強いレモンジュースが染み込んだスポンジといいバランスで成り立っている。
柔らかすぎないスポンジの中に、コロコロと時折舌を刺激する甘酸っぱい果肉が紛れ込んでいた。オーソドックスなレモンドリズルケーキからは少しアレンジされた、レモンの果肉を混ぜ込んだローレンスの味だ。
「ンだったんだよ。向こうから来といて逃げることねェじゃん?」
レンは砂糖がたっぷり使われた甘いケーキを頬張る。
用件も告げずにその場から去ったような失礼な相手を追いかけるつもりはなく、レンは組んでいた脚を戻してソファから立ち上がった。高いヒールで床を鳴らし、少々埃っぽいそこに落とされてしまったバスケットを拾う。
転がったバスケットの中身を見て、ほんの一瞬、レンの指が小さく跳ねた。
「レモンドリズルケーキ?」
甘ったるい生クリームと砂糖菓子の香りの充満する吹き抜けの中でも、その匂いは鼻につく。酸味の強い、柑橘の独特な香りだ。
細く完成された造形の指先は埃の被害を受けていないバスケットの中身はいくつかの小さな袋に数個ずつ分けられており、幸いケーキ自体は無事のようだった。
レンはその中の一つに目を向ける。素朴な柑橘の香りが漂う、レモンドリズルケーキの入った袋だ。
紅茶の中に砂糖が溶けきらないほど大量に入れるレンは、酸味の強い菓子は好まない。
しかしそれでも懐かしさを覚えてそれの包装を開けた。懐かしい香りだった。惹きつけられるようにその包装を剥がし、口に含む。
「ローくんの味だ」
それは、ごろごろとした果肉の入ったレモンドリズルケーキだ。五年前に食べたきりの、ローレンスの味。
レンは顔を上げ、階段を見下ろす。
「今の、もしかしてアカちゃんか?」
その場に彼はいない。吹き抜けから二階のラウンジを見下ろしても、変わった様子はない。あのまま外へ行ってしまったのだろう。
吹き抜けの手摺りにレンは蹲るように寄りかかる。教会建築の高い吹き抜けは、壁を隔てたわけでもないのにこの秘密基地とラウンジを別個の空間のように錯覚させる。
ローレンスが亡くなって、寂しい時期に突き放して、都を五年も空けていたのだ。その後会話を交わすこともなく時間が経ってしまった。気にかかってはいたが、まさか少し口を開いただけで逃げられるなどとは、レンは想定していなかった。
どす黒い感情がレンの胸中で渦を巻く。
「逃げられンのは、嫌だなァ」
手作りのケーキをバスケットに入れて此処まで訪れて、アーサーは誰かを探していた。
探していたのは『バカ狼』?
たとえどんな存在であろうとも、アーサーを守るのは自分だとレンの中で独占欲が渦巻く。五年も放っていたのにと自分でも思うが、耐えられない。
嫌われても別に構わないが、逃げられては困る。
それでは守りきれない。五年前のあの時のように。
思考が浮いては消える。取り止めのない感情を拭い去るように頭を振った。
レンはため息をつくように息を吐き出す。
「守らなくちゃ」
五年前の気弱なレンと同じ響きを持ったか細い声は、ラウンジの喧騒に掻き消される。