上がった息と、足音が森に響いていた。そのテンポは重く、軽快とは言えない。暗い森の中で湿り気を帯びた土が靴裏にこびりついて木の根に足を滑らせて地面に転ぶ。
レンと思わぬ再会を果たしたアーサーはユニオンホールから駆け出して、気がつけば暗く深い森の中にまで来ていた。
アーサーはようやく一息ついたところで猟銃を持っていないことに気がつく。走っている間にブレスレットまで落としてしまったらしい。代えの魔法具は持っていない。
そもそも、今日は休日で森へ入る装備は一つとして持っていなかった。
装備を持たずにお化け森を歩くのは危険が付き纏う。
「……っくそ、……、」
アーサーは何かの野生動物の縄張りに入り込んでしまったようだった。
動物たちが、息を潜めて茂みから様子を伺っている。いつの間にか囲まれていて、数秒もすればそれらは茂みから飛び出すだろう。
がむしゃらに走り回った棒のようになった足はもう随分と重かったが、体に鞭を打ってアーサーは立ち上がる。
魔物が茂みから飛び出したと同時、タイミングを見計らってアーサーは腰を落として走り出す。重い足を上げて、湿ってぬかるんだ土を踏み込んだ。
生来の体質のために動物から敵意を持たれやすい。アーサーはそれをきちんと理解している筈だった。けれど今は、それがどうしてだか周りのすべてから存在を否定されているような心地にさせた。
目に見えない何かがずっと背中に張り付いて、「邪魔だ」と囁きかけているように感じる。獣が隙を狙うのは当然のことだというのに、なぜか受け入れられない。
どうしようもなく、つらかった。
五年前、銀狼から逃げた時だって、ひと月前、銀狼に追いかけられた時だって似たような状況だったといえる。あの時も自分が狙われて、息は上がっていたのに、足が棒みたいに重いのも同じなのに、前はこんなにも苦しくはなかった。
なんで、なんで、なんで。
後ろ向きで、まとまりのない思考に苛立ったアーサーは舌打ちをこぼす。
運動強化で無理やりに動かしたアーサーの体は悲鳴を上げていた。いつも付けているブレスレットの魔法具がないために、外形があやふやになった力は辺りに拡散して、魔物たちを余計に刺激している。
ジリ貧だと理解していても、足を止めてしまえば食い付かれるのが関の山だ。今更、抵抗をやめるわけにもいかなかった。
どれほどの時間が経ったのか。依然、魔物はアーサーの背を追い続けている。
彼らの縄張りから出てもそれらが追いかけてくるのは、弱りだした獲物を狩って今日の夕飯にしてしまおうと目論んでいるからだろう。
もうだめかと思い、走る足を緩めた瞬間のことだった。
「やっと見つけた」
柔らかな声が響くのと共に、目の前には光が降り注ぐ。
眩いほどの光が体を包んで、硬い地面を蹴った靴底は柔らかな草花のクッションに受け止められる。暗い森の中を彷徨っていた筈が、周囲からは花々の甘い匂いが漂っていた。
極彩色の花畑に、銀の影。
「もう。足じゃ追いつけないし、探してくれなきゃ招くこともできないし。まさか道具も持たずに森に入るなんてね」
アーサーがその光景を見るのは三度目だった。
中心に居る銀色の影は今度こそ見逃すことはない。全反射して極彩色に映るその色は違いようもなく奥行きを持っている。
いつも通りの明るい声で喋り出したウルに、アーサーは言いようのない安心感に包まれて体の芯から力が抜けるのを感じた。
倒れかかった体を抱き留められ、アーサーは咄嗟に腕を突っ張ってウルの体を突き返す。支えを失った体はそのまま音を立てて花の絨毯に倒れ込み、アーサーは立ち上がる気力もなく、花々の上に崩れ落ちるようにして座り込んだ。
「アーサー?」
所在のないアーサーは、銀色の瞳に覗き込まれるのが恐ろしくて、より深く俯いた。
「……平気だったんだ、おまえなんか居なくても」
「へ?」
「一人でも、俺は平気だった」
「なに? ちょっと、」
「わざわざ自慢しなくても、おまえが『すごい』のなんて、さっきの一瞬で十分伝わった。おまえが親切なのもよくわかった」
アーサーの口を衝いて出たのは、自分を探して追いかけてきたウルを突き放すような言葉だった。開いた口は止められず、思ってもいないことをつらつらと並べ立ててしまう。
「呼んでもねえのに勝手に出てきて。邪魔すんな」
ウルは眉を下げ、アーサーの肩に伸ばしていた手を、ゆっくりと離す。
「俺は、銃が無きゃろくに森も歩けないのに、なんでおまえらはすごいんだろう」
ウルはアーサーに視線を合わせるようにしゃがみこんだ足を崩して、花を押し除けながら柔らかい土の上に腰を下ろす。
「なんで追いつけないんだろう、なんで俺は弱いんだろう?」
アーサーは、五年前のことを思い出していた。
「なんで俺じゃだめなんだろう」
深い森の地面はぬかるんでいたり、地面から飛び出した木の根が邪魔になるから真っ直ぐ走ることもできない。先ほどのアーサーもそうだった。
当時は気に掛ける余裕はなかったが、威嚇射撃もなしにただ全力で走っているだけならば、巨体を持つ銀狼から逃げ切ることなんてできなかった筈だ。
「俺をこの花畑にまで連れて来てくれた。あいつらは、今の俺と違って銃なんか持ってなかったのに」
アーサーの魔力は魔物を刺激しやすい。それでも五年前のレンやイオンは、当たり前のようにアーサーをこの花畑まで導いた。
「それがどんなにすごいことなのか、なにをしてたのか、同じ歳くらいになった筈なのに俺には全然……わからなくて」
だから。
「俺がなんにもできないなんて、俺がいちばんよく知ってる」
ウルはなにも言わずに、アーサーの言葉を聞いていた。左右の色の違う瞳でそれぞれの色を映しながら、自分を突き返した、アーサーの小さな体を見ていた。
巻き上げるような風が花畑に吹いて、花弁が宙に舞う。
「アーサー。おれさ、べつにその辺にいる聖霊でも、きみが信じる聖典の神様でもないから、なにがあったのかは全然わかんないんだけど」
風の音の後に響いたウルの声は変わらず柔らかなものだったが、近いようにも見えて遠い春の空か、はたまた浅く奥行きを持った鏡面かと思うほどに凛としたものだ。
「けどさ、おれはここにいるよ。
『一人でも平気』で、居ても居なくても変わらないなら、おれは側にいるよ」
アーサーは俯いていた顔を上げて、ウルを見る。
穏やかな声は、冗談めかして「きみと一緒に居たいのはおれのわがままなんだよ」と付け足した。
アーサーは今度こそその言葉に安心して、ウルを突き返していた腕から力を抜く。脱力した体を抱き寄せる手に、指輪や他のアクセサリーは着けていない。
ウルの高い体温が触れ合って、花畑にはあたたかな陽が降り注いでいる。
脳裏に浮かんでは消えるアーサーの不安が落ち着いて、気恥ずかしさにその胸板に緩く手を突き放すまで、ウルは黙ってアーサーの背を抱え続けた。
「なにがあったのか、聞いてもいい?」
髪を撫でる手がくすぐったくて、控えめに手を払い除けようとするが、ウルは気に留めた様子もなくアーサーの蜂蜜色の髪を撫で続けた。
何があったのか? 問われた途端に脳裏を過った不安感に喉が引き攣って、うまく声が出せない。けれど、話したくないわけでもない。ウルになら、話せる気がしていた。
「五年前、一緒にここに来た子たちと関係がある? レンくんが帰ってくるって聞いてたから」
返答の代わりに小さく首を縦に振る。
「日中には三年も帰ってないって。……けんかでもしたのかな」
ウルは根気強くアーサーの返答を待っていた。
「……けんかじゃない」
「そう」
「言われたんだ。『いらない』って。見捨てられたと、思った」
「……」
「『なにもしなくていい、なにもできなくていい』って」
ローレンスがいなくなった生活のなかで、どうにか悲しみや寂しさを受け止めようとしていた矢先のことだった。
その言葉以外の状況を説明する必要もないほど唐突に、気弱な、しかし深い闇のようにも見える紅の瞳で、レンはその言葉をアーサーに言い放った。
「さっき久しぶりに会ったんだ。思い出して」
「……そんなひどいことを言われたとき、アーサーはどうしたの?」
「どうもこうも、それだけだよ」
春に吹くそよ風のように柔らかいままのウルの態度は、存在を知らせるように優しくアーサーに触れる手こそ穏やかなものだったが、影を落とした長い睫毛の奥にある二色の瞳は、何かを思案しているようにも見える。
微笑みはそのままに、自分の考えとはどこか別の場所にいるような表情の意味を理解できず、アーサーは重心の位置をほんの気持ちだけ、ウルから離した。
「あれから、レンは魔法士の仕事でずっと外に出るようになって、イオンは、図書館に籠もってる、って、聞いた。カルムから」
「そう。じゃあ、それきり?」
「それきり。もう会わないんだと、思ってた」
ユニオンホールへ戻るという選択肢は、アーサーからは出なかった。
それもそうだろう、アーサーは花畑で告白したことをいまだに引きずっているらしく、時々思い出したようにため息をつく。混乱は落ち着けど整理はつかない、といった様子だ。
屋敷に置いてきた野菜が腐ってやいないかと心配になってきた頃合いではあるものの、すぐに帰ろうとは言い出さなかった。
ユニオンホールを走り出したときに偶然居合わせた面々には申し訳ないが、カルムはいいようにやるだろうと思って、ウルは気にしないことにした。
日差しの入り込む森の中、ウルが使っていた小さな簡易ベッドはアーサーのベッドとは大違いで、彼の足元で丸まって寝るには狭く硬い。
都の屋敷(アーサー曰くローレンスの家)で過ごしていた時と同じように彼の足元で丸まって寝てしまうとウルの身体は軋み、では外で寝るかと提案して、全力で腕を引かれたのはもう二日も前の事だった。
彼曰く、「俺を外道にするな」だそうだ。
人を床や森で寝かせるのは、アーサーにとって十分に常識の外の話なのだろう。
実のところ、ウルはアーサーが花畑へ訪れるまで森で気ままに寝泊まりしていた一匹狼なのだ。捨てられていたマットレスを拾って簡易ベッドを作ってはいたが、正直使ったり使わなかったりだったし、大した環境の変化でもなかったのだが、ウルは何も言わずに、アーサーの親切を受け取ることにした。
少なくとも、今までアーサーが森の中で眠るなんてことは一度もなかったのだろう。
なにせアーサーは動物を刺激しやすい体質だ。森の中で仮眠なんてしようものなら、眠っている間に魔物にペロリと食べられてしまうことになる。
「アーサーは、十分すごいんだけどね」
自分よりも一回り小さな体を丸めて眠るアーサーを起こさないように、そっと呟いた。
朗らかな陽に透けたハニーレモンの髪は、初めて食べたレモンドリズルケーキに感動して、また食べたいとねだった時に、彼が渋々といった様子で取り出したレモンジュースとそっくりな色合いだった。
アーサーは猟師になってから、毎日この花畑を探していたらしい。
八歳で親を失った都会暮らしの十三歳の少年が、誰も入れなくなった『お化け森』で? それをどういう風に受け取れば「なんにもできない」と捉えられるのか。ウルには想像もつかない。
だが、彼の抱えるような、根拠に乏しい無力感を知らないかといえば嘘になる。
五年前、父親が我を失って暴れ出した時。人間と同じようにできていた体が変質して、完全なるけだものになってしまった時。
——もっともっと前、青い釣鐘の毒花で満たされていた花畑が、それを失った時。不思議な訪問者と出会ってから、父親が少しずつ正気を失っていく様を見ている瞬間。
そんな父親に、自分はなにもしてやれないと感じる瞬間がどうしようもなく辛かった。
ひと月前に出会った父親は、自分のことを敵だとは思っていなかった。たったそれだけのことが嬉しかった。
『神殺し』の強力な力から、息子を守ろうとしたのだろう。
それを口にすることが、アーサーを傷つけることをウルは知っている。だから、自分の無力感と、それを打ち消す根拠の乏しい自信についてアーサーに語れることは、そう多くない。
アーサーの『根拠の乏しい自信』の礎になりたい。
ウルはそう思っていた。ウルにとっての父親が結果的にそうなったように。二人しか居なかったこの花畑を出ても、自由気ままに生きていけたような自信が、アーサーにあればいいのにと。
そんな存在になるには、ウルでは不可能な話であるが。
「ん……」
寝返りを打って薄く開いた金の睫毛に、煌々と輝く明るい赤色の光が差し込む。アーサーは寝ぼけ眼でウルへ視線を向けると、あくびを溢しながら起き上がった。
「よく寝た」
「起きた?」
「寝てるように見えるかよ」
「眠そうには見えるかな」
アーサーは小突くようにウルの頭を軽く叩き、ベッドから立ち上がると手慣れた仕草で火を用意し始める。
朝食の準備が始まったようだ。ウルも木のから乾燥させたハーブを取りに行こうと立ち上がる。
「そろそろ帰らないと。せっかく買った野菜が傷んじゃうよ」
ウルの言葉は、買った野菜の心配や自給自足を要される森の生活を心配するよりも、都へ帰ろうという意味が強く含まれた言葉だった。
「レタスとか」とウルが茶化して付け加えると、アーサーは困ったように眉を下げて笑う。
「……アスパラガスの方が心配かな」
——商店街の奴ら、俺が森に籠ること知ってるくせに腐りやすいのを入れるんだ。
優しく降り注ぐような朝焼けの光にうたた寝をしたウルが目を覚ましてから移動は開始した。アーサーはそれまでの時間、ハーブティーが冷めるまでずっとウルの寝顔を見ていたらしかった。
武器を持っていないアーサーの、少し不安そうにしている手を引いて、ウルはゆったりと暗い森を抜ける。
森の中でウルの足跡にいくつか鮮やかな花が咲いては消えたが、急激な速度で成長し、萎れていくその花に魔力暴走を起こした気配はない。
「うーん。どうにもショートカットしきれない」
「お前の中で森はどんな形をしてるんだよ」
「思った通りの形にしかならないよ」
口を尖らせながらウルとアーサーが都へついた頃、時刻はとうにアフターヌーンティーをできるほどの時間に至っており、昼食もろくに取らないまま森を出た育ち盛り二人の胃袋は急激に空腹を告げた。
結局のところ、急ぎで作った遅めの昼食で消費しきれなかった野菜を処理するために、アーサーは多めの夕食作りに奮闘することになったのだ。
雲が薄い膜のように都の黄昏に焼けた空を覆っている。
アーサーが夕食のメニューに奮闘している間、ウルはユニオンホールまで忘れ物を取りに行く事になった。その帰りに、なぜだかケーキ屋へ足を向けていた。
アーサーの言葉通り、その日のうちに消費してしまいたい野菜は大変ボリューミーになっていたし、レモンドリズルケーキを買って帰ったところで「なに勝手に消費品目増やしてやがる、胃袋狼」とでも言われそうなものだ。
この数日間で生育環境のまるで違うアーサーの言葉が、ウルにも想像できるようにはなっていた。
それでもウルは黄色に染まった夕暮れの空にかかる白く薄い雲を見て、レモンドリズルケーキの甘味と酸味を思い出したのだから仕方がない。気の向くままに動くのがウルという人だった。
あとのことは微塵も考えずに、ウルは赴くままにケーキ屋へ足を運んだ。大通りを抜けて自然公園を突っ切る。
青い釣鐘形の花が国中から姿を消し、ウルの前からすらも姿を消してもう何年になるのか。ウルはその時間を正確に知っているわけではない。
大きな狼に壊された噴水はいつの間にか修復され、青で彩られた毒の花畑は立ち消えた。
燃やし尽くされた銀狼は、死体すら残らない。
たとえその自然公園が元通りの姿であったとしても、それが正しい状態であったとしても、直された噴水や他のあれこれは『自分の父親』という存在がゆっくりと世界に溶けて消えて無くなってしまうようにも見えて、胸がざわついた。
「——よォ、『銀狼』?」
圧倒的な存在感を感じさせる声が響いた。
背後から強い衝撃を受けてウルはレンガ張りの地面へ倒れ込む。ウルの体は、たったそれだけのことで崩れ落ちた。
地面に頬骨をぶつけながらも強大な魔力を背に感じて、ウルは咄嗟に体を横に転がす。
「……こんにちは、レン様?」
「おーおー、丁寧なゴアイサツで。てめェもオレのこと知ってんの? アカちゃんは兎も角、てめェに名乗った覚えは本当にねーんだけど」
この世界で、最も稀有な色の髪がそよ風に揺れた。
黒い髪。深すぎて闇のようにも見える紅の瞳。圧倒的な魔力と、完成された顔貌。
彼の刺々しい容貌と態度はウルが見た五年前の姿からは相当かけ離れたものだったが、圧倒的な存在感と聖霊たちのざわめきは、アーサーを庇った直後に感じたものと全く同じものだ。
彼が花畑の周りを『お化け森』に変えた。別人なんて、あり得ない。
レンの釣り上がった紅の瞳が三日月に歪む。笑んでいるというよりも表情を歪ませていると表現した方がいくらか適切なほど凶悪な表情だ。
「ま、いーや。おまえ、死んでくれね?」
大きな鎌がウルの毛先に触れ、首筋を撫でる。咄嗟に身を逸らせば、着地した地面にはどこからか現れた鎖が仕掛けられており、ウルの片足に絡みつく。
端の見えない鎖は引かれ、ウルは体重の乗った勢いをそのままに地面に肩をぶつけて転がった。
「っ……、おれ、きみに嫌われるようなことしてないよ」
「あ? 好き嫌いの話してねーよ。お仕事だっつの」
「話を聞いて!」
「はぁ?」
「どうしてアーサーに酷いこと言ったのか、事情を聞いても……うわっ!」
絡まったままの鎖を引っ張られてウルの体は空中に投げ出される。ほんの一瞬の浮遊感と眼前に迫った地面を咄嗟に避けて、風の壁を作り出した聖霊に礼も言えないまま攻撃から逃げるしかなかった。
「化け物に聞かれる事情なんて持ち合わせてねーよ」
自由にならない足を引きずって、どうにか魔法を解除できないかとウルは鎖を掴むが、それは高い密度の魔力で生み出されているらしい。ウルが人より聖霊の恩恵を受けやすい体であったとしても、『ただの魔力』ならば、魔法ですらないのなら、それを解きほぐすことはできない。
「アカちゃんと知り合いなら、余計生かしちゃおけねぇな」
厳密には魔法の定義に含まれない、純粋な力。——その巨大な刃が、地面に転がったウルの首めがけて落ちた。
「——おい! 何してる!」
アーサーの戸惑った声が二人の耳に届いた。ウルの三角耳は震え、レンはアーサーを一瞥したが、それで手を止めることはなかった。
アーサーが立ち尽くしている間に、レンの大鎌はウルの喉元へと到達する。
「ほら、人間様のフリしてんじゃねーよ、ケダモノ」
ウルの皮膚から血液は出なかった。柔らかく押しつけたように刃は皮膚を沈める。
首の皮が一枚繋がったと言うよりは、その体には刃物が通らないという、現実の歪み。
鎌での攻撃がウルに通らないことを判断したレンは、ウルの腹に踵を落とし込む。
「う、」
「……あァ、コレは効くんだ」
つまらなさそうに呟いたその声は一切の感情が抜け落ちているように冷淡で、ただ状況を判断している観察者の声だった。
「じゃあコッチはどう?」
レンは注意深くじっと深い紅の瞳でウルを見つめ、その顔面を蹴り飛ばす。
「やめろ!」
あまりの出来事に目を瞠ったアーサーが、ウルへの追撃を阻むように掴み掛かった。
レンはアーサーの体をこともなげに振り払う。地面に倒れ伏したウルの一挙一動を見つめたまま、アーサーのことをまるで透明人間かのように扱った。
「聞けって! レン!」
「……」
再び駆け寄ろうとしたアーサーは二人の間に入り込む前に透明な空気の壁にぶつかる。硬質な障壁はレンの魔法によるものだ。
ずっと俺を居ないものとして扱う気か?
「レン!」
「アカちゃんは何もしなくていい。何度も言わせないで」
やっと告げられた明確な拒絶に、アーサーは心臓を掴まれたような心地になる。
わかっていたことの筈なのに、無力感が、全身の動きを重くする。
障壁を突破しようにも、失くした替えの魔法具では歯が立たないし、強力な猟銃も持っていない。
アーサーは帰りの遅いウルを心配して出てきただけだった。
それよりも、結局。
黒い髪を持つ純然たる『魔法使い』であるレンの魔法に介入したり、打ち消したりできるほどアーサーは優れた魔法が使えるわけでもない。
「こいつは、父さんを殺した狼じゃない」
「だから何?」
「だから……、だから、」
何もできなくていいんじゃないか? 何もさせてもらえないんだから。
ウルが銀狼と同じなら、ウルは刃物も効かなければ魔法も効かない。レンを止められなくても、今ここをやり過ごしさえすれば。我慢さえすれば。もうそれでいいんじゃないか? ……ウルは死なないんだから。
アーサーがその場で俯いてしまったことで、レンの視線は再びウルへと戻る。
「偽神でも悪魔でも何でも。運命の存在を、オレは許さないだけ」
「レンくん、それは、」
「化け物が口答えすんなよ」
レンはウルを観察するように、つまらなさそうに見下ろしていた。ウルの足に絡み付いていた鎖が強い力で引かれる。
鎖は思い出したように突然現れ、腕にまで絡みつく。
「オレ様の、イッちまうくらい気持ち良いのをくれてやるよ。とっととアカちゃんの前から、消えろ」
中空に組成された大きな鎌が、ウルに目掛けて落ちる。
直前のやりとりで有効打にならないとわかったその攻撃をレンは当然のように行った。大きな刃が不自然に軌道を逸らせて、地面に突き刺さる。
アーサーが予想した通り、以前に銀狼と対峙した時と同じ現象が起きたのだとわかった。
刃はその肌を傷つけず、弾丸はその体を打ち抜かない。——その筈だった。
「っ、あ……、あぁああっ‼」
アーサーがほっと息を吐いた瞬間、ウルが聞いたこともないような叫び声をあげた。
喉が引きつり、血が出てしまいそうな声だ。
アーサーにはなにが起きているのか分からない。だが、そのあまりに悲痛な叫び声を聞いて、いますぐにレンの横暴を止めなければならないと身を乗り出す。
それまで障壁に阻まれていた体はことのほか簡単に前に出て、アーサーはよろけながら勢いを殺さずにレンへとそのまま体当たりをした。
アーサーよりもずっと高い背に対して細すぎる肢体は、レンガ張りの地面へと体を落とした。
レンと目が合って、アーサーは今度こそ目を逸らしはしなかった。
「こいつに何したんだよ」
「オレがあの森を魔物の巣窟にしたのと同じコト。単純だろ」
「大量の、魔力……?」
(魔力を注いだ? ウルに? どうして?)
アーサーは混乱しながら、それがどんな状況を引き起こすのかを考える。
人間が持つ魔力は世界との隔たりで、世界へ干渉する力だ。荒地を森に、晴天を嵐に、血を真水へと変える超自然の力。もちろん使い方を違えれば、野原を焦土に変えることだって出来る魔の力。
ウルが起こす超常現象にはほとんど魔力の気配が無い。
世界との隔たりを持たないウルに、膨大な魔力を注ぎ込んだら? そんなことを意図的に行う? 出来るわけがないと、頭ではそう思うのに、アーサーは嫌な想像を止められないでいる。
「天使、妖精、偽神、何でもいいけどさ」
普通では考えられない。だが、いま目の前に居るのは『黒い髪の魔法使い』だ。聖典で、奇跡を起こすとされている者。
「人間様じゃねェなら、魔力で犯せねェものじゃない」
「……いやだ」
「アカちゃんは黙って見てろ。オレが守るんだよ。世界から」
押し問答になって痺れを切らしたレンが立ち上がって、もう一度武器を構える。
そこでようやく、二人は周囲が極端に静まり返っていることに気がついた。
耳に覚えのある獣の唸り声が、耳に届く。
そう在ることが当たり前のような音に、ともすれば無音にも聞こえるそれは吹き荒ぶ風の音にも聞こえる。その唸り声に、アーサーははっとする。
「バカ狼? いや……」
アーサーが振り返れば、そこには巨大な銀狼が立っていた。
五年前、あの時、あのままの姿で。ひと月ほど前にアーサーがその手で殺したはずの大きな銀色狼。そこにはいた。そうとしか思えなかった。
「こんなの聞いたコトねェぞ」
レンは当惑の色を見せながらアーサーの肩を抱き、庇うように身を乗り出す。
半端に伸びた黒い髪の間から見えたのはまばゆい光だ。ウルの居た場所で、それは目を突き刺すように輝いた。
銀の毛皮、銀の瞳。淀みなく輝く両の目は色を違えることはなく、鏡のように艶やかな銀色で満たされ、あたりの色を拾い、それを返す。
その輝きは違いようもなく、絶望的なまでに美しい。
「ルドルフ、きみはどうしてそんなに大きな耳を持っているんだい」
「それは、みんなの声を聞き逃さないように」
「ルドルフ、きみはどうしてそんなに大きな口を持っているんだい」
「それは、みんなに声を届けるため」
「ルドルフ、きみはどうしてそんなに美しい目をしているんだい」
「それは、みんなが自分を見失わないように」
それは、愛するきみたちを守るため。