それは巨大な、銀の狼だ。
人が魔力暴走を起こすわけがない。そもそも魔力暴走ではないのかもしれない。その姿は五年前に出会った大きな銀狼と何一つ変わらないのだから。
悠然と立っていた獣は大きな鉤爪を振り上げる。
「嵐よ、守れ!」
レンの詠唱によって生み出された水と風の膜が二人を覆う。
狼の鋭い鉤爪が障壁を越えて、レンの肩にめり込もうとしていた。
咄嗟にアーサーはレンの体を引き、鉤爪の軌道から逸らす。水と風が霧散した。その現象は、障壁が物理的な勢いで壊れたわけではないことを物語っている。
「魔法も無効化すんのかよ。マジでマズった。ンなの知らねェぞ」
低く喉を鳴らす、森に吹きすさび葉を叩きつける音のような声は獣そのものだ。
だが、ウルだと思われるその獣から、二度目の追撃は来ない。
「バカ狼、おい、どうしたんだよ」
レンの魔力に当てられたとしても、お化け森がその規模や多くの木々のあり方を変えなかったのに対して、意思を持つ存在が簡単にその定義を失うとは考えづらい。
草木の品種改良を進める人間が妖精の姿や意思を変えられないように。魔力暴走を起こした動植物がいても、そんな妖精がいないように。
——それらは過分な魔力で変質する前に死んでいく。
「下がってろ。どーにかすッから」
レンは今すぐにでもこの狼を殺す。殺せてしまう。手で抑えたところで魔法を使われたら敵いっこない。それでも、アーサーはレンの指輪だらけの手を掴んだ。
邪魔だとでも言いたげに、腕を振られる。
「どっか隠れてろって!」
「退かない」
「アカちゃんは何もしなくていいって言ってンだよ」
「……退かない!」
視界の端にとらえた白い箱からは、先ほどから微かにレモンと砂糖の匂いが溢れていた。甘ったるい匂いの存在感に掻き消えてしまいそうなほどほのかで、爽やかな香り。
散々用意したスープもパンも揚げ物もあるのに、どうしてウルはわざわざケーキを買ってしまったんだろう? きっとくだらない理由だ。
とんでもない状況なのに、その匂いの存在を感じるだけで思わず笑ってしまいそうになる。考えただけで、気持ちがほんの少し上向きになった。
「邪魔すんな。オレ様が、全部してやっから。危ないことすんなよ」
五年前のレンの言葉や行動は、改めて聞くとただアーサーを守ろうとしているようにも聞こえる。
今はどうだか知らないが、少なくとも昔はそうだった。
「余計なお世話だ!」
五年前から、レンには世界を変えられる膨大な魔力があった。なにか一つ自分がうまくやれば、悲しまなくて済んだのに。なにか一つ自分ができれば、受け入れられない現実は訪れなかったのに。
そうやって、なにもできなかった己を許せなくなってしまう。
——それは一番、俺がよく知ってる。
「レンのばか! それで俺を守ってるつもりなら、そんな勘違いとっとと捨てろ! 黙って聞いてりゃ勝手なこと言いやがって! 腹が立つ! うぜえ! ふざけんじゃねえ!」
「えっ、あ、アカちゃん! 危ないって!」
急に怒って手を離したアーサーに対して状況を飲み込めないレンが手を伸ばす。ウルに向かって前進したアーサーを捉えることは出来ず、その伸ばした手は届かない。
「俺はレンにできること、なんにもできないかもしれないけど、危なっかしいかもしれないけど」
伸ばした手が届かなかったことに、脱力しかけたレンの手をアーサーが掴んだ。差し出された手を顧みないとは一つも言っていない。指輪だらけのレンの手は昔と変わらず華奢で、年下のアーサーよりもひどく頼りないように思えた。
「誰がなんと言おうとバカ狼は俺の家に飯たかりに来るし、俺はそんな奴が俺の家に来ても良いかなって思ったんだ。レンやイオンとなんにも変わんねえよ」
言いながら、アーサーは携帯していたナイフで手の甲に小さな傷を入れる。アーサーの瞳と同じ鮮やかな赤が手を伝った。
手を伝う血液を少しだけ舐める。なにをどうすればいいのかはわからなかったが、少なくともアーサーの血液が『銀狼』に効くことだけはわかっていた。
この血に残る魔術はきっと、魔力を注がない限り致命傷には至らない。
「運命とか、運命じゃないとか、どうでもいいよ。俺は、俺のできることをするだけだ。俺の未来を勝手に決めるな」
目の前に迫った大きな獣。長い間放っておいたのに、逃げも隠れもしなければ二度目の攻撃を繰り出すこともない。
眼前数センチに迫った巨体に腕を伸ばして、アーサーはその柔らかな毛を撫でた。分厚い毛皮の下にある体温を感じて、この絶望的なまでに美しい銀色も、体温のある生き物なのだなと、頭の隅で考える。
ウルの瞳は全てを写し込む銀色だけではない。右の目は、春の空の青色。
大きな頭を抱え込むようにして、本来は春の空を閉じ込めた右の瞼に口付ける。
「おまえ、ケーキ買っただろ。なに勝手に消費品目増やしてやがる。胃袋狼」
次にアーサーが目を開いた瞬間に合った目は浅い青の瞳で、瞬きをするうちにいつもの人形めいた造形のいい、人懐っこい微笑みが目の前にあった。
「……思った通りに怒られちゃったなぁ」
『観てしまう』のはいつも嫌な未来だった。
ただそれを避けたかっただけだった。
俺は許されないことをした。
苦しみを間近で見るのに、耐えられなかった。
苦しいだけなら、関わらない方がいい。
不機嫌そうに唇を尖らせた美貌が、料理の取り揃えられたテーブルに行儀悪く頭をつけた。一部だけ長く伸ばした艶やかな黒髪を床につけ、「あー」とか「うー」とか子供のような唸り声を上げていたかと思うと、途端に静かになる。
「……なぁンでこうなった?」
沈黙の後に発した言葉には困惑の色が滲んでいる。
「みんなでご飯を食べた方が美味しそうだから、……かな?」
朗らかな微笑みを浮かべたままウルが返した。
一度地面に打ち付けられた白い肌には擦り傷やアザが見られていたが、当人は適当に水で濯いだ後はガーゼすらつけていない。目の前にはその傷を作った本人がいるのだが、さして気にした様子はなかった。
屋敷へレンを連れ帰ったのはウルだった。
リビングにまでレンを引きずるだけ引きずったウルはテーブルに色とりどりに並ぶ料理を見て感動の声を上げて駆け寄り、アーサーは気まずいながらにも椅子へ座る。それを見たレンは、渋々といった様子で席についたのだ。
「……アスパラガス、キライ」
状況に諦めのついたらしいレンが、スプーンを片手にグラタンに入った野菜を綺麗に避けながら、苦々しい表情で呟く。
「トマトキライ。葉っぱキライ。にんじんキライ。カボチャキライ。キノコキライ……。ンだこれ嫌がらせか? 食えるもんがねーんだけど」
「なんでも自分が中心だと思うなよ残飯でも食ってろ」
「アーサー、抑えて。抑えて!」
「ひとまず仲良くするんだよ」と小声で言われても、そもそもこのグラタンは頬を蕩けさせておいしく食べるウルの様子を期待して作ったものだ。腹が立たない方が難しい。
レンは五年前からひどい偏食家だった。
当時は今ほど露骨に主張はしなかったが、そっと(と言っても料理全体の六割ほどの量になる量を)皿に避けて残していた。見かねたイオンやローレンスが根気よく勧めて、やっと野菜を一口食べるか食べないかというほどのもので、それはどうやら現在も変わらないらしい。
というか、ひどくなっている気がする。
「直せよ、偏食を」
「つかケーキ食おうぜ、レモンケーキ。ココに並んでるモノより食えるだろ」
「あ! だめだよ! ケーキはデザートなんだから!」
ウルはテーブルに身を乗り出して、レンが取り出したレモンケーキの箱を奪いあげる。
「返せよ」
「元々おれの! アーサーと食べようと思って買ってたんだから!」
ひとまず仲良くするんじゃなかったのか、レンと。
アーサーはそう思いながらケンカの行く末を見守ることにした。
「ふうん?」
レンは顎を上げて余裕綽綽と言った様子で指揮者のように指をくるりと回す。水が宙に浮かんで、形を持った水の塊がウルの腕を掴む。触肢のように動く水は、ケーキ箱を持った腕をゆっくりと開かせた。
ろくな詠唱も使わずに指先の動き一つで大量の水を生み出し、精密な動きを実現してみせるレンの魔法技術にはアーサーも驚かされたが、それはそれだ
あまりのくだらなさに、「何もできない」だとかそんなことでウジウジと悩んでいた自分が情けなくる。
魔法という人類の特権と叡智をふんだんに無駄遣いをしてウルからケーキ箱を取り上げようとするレンに、ウルは無邪気な笑顔を向けて「ふふん」と喉を鳴らした。
無駄に造形の良いしたり顔が完成したところで、ウルを拘束していた水の魔法が霧散する。
「没収!」
形勢逆転、ウルの勝ち。かと思いきや今度は魔法反応の見られない鎖を何処かから取り出したレンがウルの体ごと引き寄せる。
造形の良い顔が並ぶのはさながらどこかの美術館にでも飾られていそうな絵画的な並びだったが、嫌われていたはずの幼なじみと深く語ろうとしない狼男がくだらない話でバタバタとリビングを暴れる様を、少なくともアーサーは快く見守ることはできない。
なにせ自分の作った料理が冷めただけではなく暴れる二人によってひっくり返される危機なのだ。
アーサーは改めて思った。
「ごちゃごちゃ言ってねえで食え、馬鹿」
——どうしてこうなった。
「レンくんはさ、どうしてアーサーにひどいこと言ったの?」
夜の都を歩きながら、ウルとレンはアーサーを挟んで和やかに談笑していた。突然に核心へ迫るウルの質問に、アーサーの心臓は鼓動を早める。
レンの言葉を断片的に思い出すと、守るだとか、なんだとか。ぼんやりと予想はついていても、改めて聞くとなると話は別だ。激昂して何か言ったような気もするし、それが思い違いだったら恥ずかしい。
しかし、アーサー自身、レンの今の態度に対してどんな対応を取れば良いのか考えあぐねていたのだ。改めて、聞きたいと思った。
「ヒドいコト?」
予想に反して、レンは疑問符を浮かべながらウルに聞き返した。
ウルも流石にその反応は予想していなかったのか、アーサーから聞いた話を伝えて良いのかと覗き込むように背を曲げ、視線を向ける。
聞きたくもあるし、聞きたくない。なんとも言えずに街灯で青白く照らされた地面に視線を逸らすと、その反応を了承だと受け取ったらしいウルが躊躇いがちに口を開いた。
「『いらない』とか。アーサーに言ったんでしょ」
「あー。イオンにも言ったなァ、ソレ。別に考えは変わってねーよ」
空を見上げたレンが呑気な声で言う。レンにつられてアーサーも視線を上げると、空は暗い灰色を塗り広げていた。
薄く雲に覆われた空に、星は瞬かない。
「ごめんね、アカちゃん」
存在を魂に刻みつけてくるような、甘やかで端正な声がアーサーの耳元に落ちる。
アーサーが振り返れば、鈍色の空よりも暗い、深い紅の瞳とかち合った。釣り上がった目尻はアーサーが見知ったものよりずっと鋭くなってはいたが、表情が綻んだ時の柔らかさは変わらない。
ううん、と腕を組んでもう一度悩むような仕草をしたレンに、ウルとアーサーは目を見合わせて、ため息をつく。
アーサーとしては、流してしまっても良いことのように思えるが、ウルの尻尾は落ち着きなくゆったりと左右に揺れていた。
「まぁ、オレがなんとかしなきゃいけなかったんだよ」
「レンが?」
「ローくんは怪我してたし、イオンは他に集中しててろくに魔法なんて使えねえよ」
イオンという名前に反応して、アーサーは思わず周辺を見回した。
会話に集中していて気にしてもいなかったが、周囲には見知らぬ景色が広がっている。
「……それでレンくん、どこに向かってるの?」
「え? デカい図書館だよ。物知り博士の城だぜ」
広がる市街と窓から漏れ出る柔らかな光から王都の中であることは確かだとはいえ、気がつかない間に全く知らない光景が周りに広がっていた事にウルとアーサーは愕然とする。
レモンドリズルケーキの取り合いになった末、「イオンも連れてこよーぜ」とあっけらかんに言ってみせたレンを、二人は強く突っぱねることもできなかった。
「図書館は真逆……」
「そーなの? それってどっち?」
それは『ひとまず仲良くする』と二人で話した直後だったからだが、なあなあでケーキ箱を片手に屋敷を出たレンを追いかけたことを、二人は後悔しつつあった。
「呆れた。」
「あ!」
背後から、その言葉通り心底呆れたようなため息が聞こえた。
ウルが機嫌を良くして振り返るが、アーサーとレンはそれにつられて振り返っても、十歩以上離れた距離からため息を響かせた人影は、黒い服を着ていて、夜の闇に紛れて何者かまでは把握できない。
「〈原始の神々〉と〈神殺し〉を連れた黒髪不審者、 阿呆御一行様が、ごく一般人代表の俺に何の用だよ。危ないから夜は外に出るなってカルムに言われなかったか? それで、よく知らない奴は相手をするなってローレンスとの約束は? 其処の阿呆にも銀狼にも、ひょいひょいついてくと碌な目に遭わないぞ」
捲し立てるような平坦な声と硬質な声に、アーサーは聞き覚えがあった。黒くて長い上着を着ているらしい青年は底の薄い靴の低い音を響かせて、——曰く、『黒髪不審者、阿呆御一行様』へと歩み寄った。
黒い服とは真逆に、山吹色の髪と瞳は夜の闇にも紛れずに三人の目に留まる。瞳も髪も特別珍しいわけでもない色にもかかわらず、ほんの少し垂れた瞼から覗く、野暮ったい橙色の視線はイオンのものだと感じさせた。
「レン、図書館を探して如何してこんな辺鄙な場所まで辿り着く?」
「どォせ迎えに来るだろ?」
「何時間も、何日も、何週間も辿り着かないから迎えに行くしか無いんだ。知っとけ。アカと其処の銀狼が居なきゃ見捨ててた。」
レンに誘われて来た手前、今更な話ではあったが、五年間会っていなかっただけの友人にどう接すればいいのか、アーサーにはわからない。
なんとなく居心地が悪くて、半歩だけ後ろに下がる。
「アーサー?」
アーサーの動揺に気がついたらしいウルが覗き込むように姿勢を低くして小声で問いかける。困ったように眉尻を下げて、ウルは微笑んだ。
アーサーが二人と関わっていない間にもレンとイオンは普通に会っていたようで、どうしたらいいのかわからない。気まずい。
「……えっ、と」
「? アカ。」
イオンがアーサーへ向き直り、歩みを進める。イオンが一歩進むと、アーサーは半歩後ろへ下がった。
悲しかったり、ムカついたりしていた相手には怒鳴って正面から不満を言ってさえしまえば、相手への感情はある程度の収まりがついた。だが、なにも起きたりしないまま、自然に距離を置かれた相手と対するには、なんとなく尻込みしてしまう。
イオンからは明確に拒否されたわけではない。ただ気がつけば、目の入るどこにも居なかった。知らない間にユニオンを抜けていた。イオンが図書館で司書をやっていると知ったのも偶然聞いただけだ。
「久しぶり。アカ。」
「……なんで今更」
ことのほか気さくに話しかけられたことで、アーサーの困惑はさらに募った。
「本当はもっと歓迎したいんだがな。今日は、アカに会いに来た訳じゃない。そこは先に謝る。ごめん」
記憶よりもずっと低くて落ち着きを持つイオンの声は、聞きようによってはローレンスの声が持っていた穏やかさを想起させる。
イオンの重心の偏った立ち姿は気怠げで、森を抜けられそうにもない。情けないほどに頼りない雰囲気だ。
髪を撫でつけられて、ごく当たり前に頭を撫でられていたのだと気がついた。指輪をつけた指の感触はローレンスの手よりもずっと柔らかい。
「アカのことが嫌いな訳でもない。今も昔も、ずっと友達で、家族だと思ってる。」
「ひゅー、熱烈ゥ」
「レン、茶化すな。」
嘆息しながらレンをいなし、イオンはウルへと向き直る。
「銀狼。」
「おれ? ちゃんと名前を呼んでよ。ウルだよ。ウル・シオン」
「ウル。図書館を開いてやる。俺はそれ以外、関与する気は無い。」
——今も昔も、ずっと友達で、家族だと思ってる。
イオンから言われた言葉をアーサーは胸の奥で反芻する。それでも理解にはほど遠かった。父さんがいなくなった時、一番近くに居たのはレンとイオンだというのに。だったらどうして、好きで、友達で、家族だと思ってたのなら自分の側から離れて行ってしまったのだろう。
今日だって、ケーキを一緒に食べるためにアーサーと出会ったわけではないという。
「……なんだよ、それ」
理解が及ばない。置いてけぼりにされたような感覚だ。いつも。いつも。五年前からずっとそうだった。
手近にあった扉をイオンが開き、導かれる。訝しみながら足を踏み入れると、そこはアーサーたちが想像したものとはずっと違う光景が広がった。
あたりには整地された柔らかな芝生が植え付けられているようだ。奥に見えた背の高い建物のシルエットは、決してアーサーの知る国立図書館の姿ではない。
イオンに案内されたのは、見たことのない場所だった。
先を歩くレンとイオンに対し、足取りの重いアーサーに合わせてゆっくりと歩いていたウルが首を傾げる。
「——? イオンくん、さっきの扉って、もしかして」
「ここに繋がっている扉が在るだけ。聞かれて答えられる様な事は無いぞ。」
「わかるような、わからないような……」
ううん、と首をひねりながらウルはアーサーの横を歩き出す。前を歩く二人は気に留めない様子で先へ進んでいった。
「何の話?」
「おれの花畑と似た感じがしたから」
『花畑』というのは間違いなくあの極彩色の花畑の事だろう。
あの雰囲気と今の夜の都の静けさは似ても似つかない。似た感じ、というのもいまいちイメージが繋がらず、曖昧な相槌を返す。
ウルは言葉を探して、ほんの少し歩みを遅めた。
「森の奥でも、アーサーは『いつの間にか』毒の花畑に居たでしょ? ああいう感じ。本当はあんな場所にあるわけじゃないんだけどね。空間をつぎはぎした感じ……って言ったらちょっとは伝わる?」
「わかるような、わからないような」
話しているうちに、広場の中心にあった建物の前へと辿り着く。
敷地面積としてはあまり大きいようには見えず、背の高い建造物は図書館というよりも、教会建築のような風態だ。
「あ、レモンケーキ一緒に食おうな」
レンの呑気な言葉と同時、両開きの扉が重そうな音を立てて開かれる。
外観どおりの教会らしい内部構造に、本が置かれている様子もない聖堂にアーサーらは疑問符を浮かべながら、地下聖堂へと至るであろう階段を下りた。
聖堂横の階段を下り、薄い扉を隔てて広がったその光景に、アーサーとウルは言葉を失う。
「……わあ、」
ウルが思わずといったふうに感嘆の声を上げた。
地下へ下りた距離と目の前に広がる空間の天井高はまるで一致しない。地上の聖堂と同じか、それ以上に高い天井と、壁を埋め尽くすおびただしい量の書籍が鮮烈な光景だった。
アーサーは「花畑と似ている」と言ったウルの話を思い返していた。現実に考えられる法則を無視して、普通は魔法でも実現しないようなことがあまりにも当たり前に広がっている光景に目眩がする。
後ろから肩を叩かれてアーサーが振り返ると、レンの指先が頬の肉を沈み込ませる。
「アカちゃん、つれねーイオンなんか放っといてさっさとケーキ食おうぜ」
「それじゃ本末転倒だろ」
ウルは早速調べ物を始めてしまったようで、暇を持て余しているアーサーたちを見てイオンは「仕方がないな。」と嘆息した。
通路の傍にある小部屋にアーサーたちは招き入れられた。
食器などが揃った部屋の様子を伺うに、カルムの言っていた「図書館に籠もっている」という話はこの教会図書館の事らしい。
茶会の準備が終わるまで調べ物をしているであろうウルはそっとしておくとして、紅茶と皿を用意するイオンと退屈そうに待つレンしかいないその空気に、アーサーは居心地の悪さを感じる。
ソファに縮こまっていると、隣からレンの体重がのしかかった。凭れるようにして黒い頭をアーサーの肩に預けたレンは、どこかぼんやりとした声で口を開く。
「さっきも言ったけど、オレさ、あんまヒドいコト言ってるつもりなかったんだ。ホントに、オレだけがあの状況をどうにかできたハズなのに、って思ってて」
その話をまた蒸し返すのかと思った。
「……もう、いいよ。言っただろ。俺は出来ることをやるだけ」
「ごめんね」
か細い声の謝罪を聞いて、やっとわかる。ウルが隣に居ないからこの話を蒸し返したのだ。五年前の柔らかな傷を抉るような話題は、今の強者然とした振る舞いをするレンにとってはあまり他人に見られたいものでは無いのだろう。レンは元々、警戒心が強くて人見知りだった。
「おまえがそう思うのは勝手なんだって」
「それでも、ごめんね」
「うん」
蕩けるように眉を下げて笑う美貌の、あまりの存在感に妙な違和感だけが募る。
レンは最初に声を掛けた時と同じようにアーサーの頬を指先でつついて笑った。
「アカちゃんだ」
「なんだよ」
「変わらないなぁと思って」
変わっただろう、とは言えなかった。
アーサーを楽しそうに見守って、なんにでも喜んでみせたレンはもう居ない。昔のように、見守ってくれはしないのだろう。アーサーが何も出来ないからではなく、レンが『出来る』から。
そんな現在のレンとウルは似ても似つかないが、幼い頃のレンとウルはよく似ていた。
いつかのケーキ屋の主人に言われたことを思い出す。やたらに目を惹く容姿だけでなく、自分に対する態度が似ていた。昔は、そうだった。
急に再会しても昔との違いをありありと感じてしまうばかりで受け入れるのが難しい。
紅茶の香りが漂ってきて、あとから嗅ぎ慣れない匂いが交じっていた。苦くて重苦しい香りは馴染みのある香りではなくて、判別がつかない。
「コーヒーは一杯しか入れてないけど、ウルも紅茶で良かったんだよな?」
「そンな泥水飲むのイオンしかいねェよ」
四人分のティーカップを持ってイオンがテーブルに戻ったことで、その苦い香りがコーヒーのものだとやっと知る。ほとんど初めて嗅いだ匂いだった。コーヒーを泥水と称して皮肉ったレンはそれを知っていて、アーサーはそれを知らない。
やっぱり置いてけぼりにされたような気分だ。
「準備出来たからどっちかウル呼んでこい。」
アーサーは体に絡みついていたレンの腕を振りほどいてソファから立ち上がる。アーサーは二人と視線も合わせず、木製の床を見つめたまま地下聖堂へと走り出していた。
「俺、呼んでくるよ」
中途半端に爪の伸びたレンにさされた頬は、ほんの少し痛かった。