「バカ狼、ケーキ」
おびただしい量の本に囲まれていても、地下聖堂で煌く銀色を探すのには苦労しなかった。
いつだって「いつの間にかそこにいる」ウルが、不思議な空間で浮いた空気を出しているのがなんだか珍しくて、アーサーは少しだけ頬の筋肉を緩ませる。
両腕を広げても横に十人以上並べそうなほどに広い空間で整然と本が並ぶ様は、世界有数のコレクション数を誇る国立図書館ほどの途方もなさは感じられない。あちらが本の森なら、こちらは本の大聖堂とでも言うべきか。
何がどこにあるのかはわからないが、果てしないわけでもない。不思議な空間だった。
「レモンドリズルケーキ、食わねえの。そろそろ準備終わると思う」
「あ! 食べる!」
ウルは読んでいたらしい本を閉じてアーサーに飛びついた。心底嬉しそうに尻尾を振りながら抱きしめられる感覚に、嫌な気分はしない。
「……動けないだろ。離せ」
単に気恥ずかしくてウルの胸板を押し退けると、なすがままに突き放されたウルが苦笑いを溢した。
「ねえ、アーサー? ちょっとだけ、上の聖堂を見ようよ」
この図書館に、自分たち以外の人影は見られなかった。司書がいなければ何をどうやって探せばいいのかもわからないような有様だが、ウルは本当に調べ物ができていたのだろうか?
差し込む月明かりが、ステンドグラスの色を床に落とし込んでいる。
炎の様に鮮烈な紅。太陽の様に煌く金。海の様に深い蒼。それらが混じっては別の色を映し出す。アーサーはその様を、まるであの花畑のようだと思った。
「アーサーが信じてる神様って、どんな神様なの?」
「はあ? なんだよ、急に」
「銀狼は『神殺し』って魔術で殺せるけれど、アーサーが信じてる神様とは違う感じだなぁと思って」
「それはまあ、そうかも」
「……だから、アーサーがいつも祈りを捧げてるのはどんなヒトなのかなって」
ウルのことを天使か妖精だと言ったレンのことを思い出す。
いつか聞いた銀狼を指す言葉——〈原始の神々〉は、古い伝承に残る表現だった。現代には残らない異教の神と言ってもいい。レンが言った、『偽神』という表現はその感覚が根本にあるものだろう。
妖精であればカルムのスプーキー=シャドウのように、意思を持てども姿は殆ど存在しない。天使なんてのは神様の所業を有り難がって過程を妄想しているようなものだ。少なくとも、妖精のようにおいそれと出逢えるものではない。
アーサーは、天使や妖精に実体が存在しているかすら怪しいとさえ思っているのだ。
「……別に、信心深いわけじゃねえから、詳しいわけじゃないけど」
「うん」
「いつでも、近くにいるって信じられてる」
「……いつでも?」
ウルは銀狼の子供だ。獣の耳、獣の尻尾、幻想的な銀の毛並み。現実を書き換える超常の存在。そんな相手に『神様』の話をしているなんて、なんだかおかしな話だな、と思いながらアーサーは口を開いた。
「ほんの些細な祈りとか、苦しみを聞いてくれるんだ。誰にも言えない、言葉にならない苦しみでさえ、神様の元には平等に届く」
そう言われている。
「……神様って、なんだかお父さんみたいだね」
「あぁ、そうかも」
ローレンスが死んで、レンもイオンもそばに居なかった時、泣きついた相手は今まで信じてもいなかった神様だった。
言葉にならない悲しみや怒りがあっても、神様になら祈ることが出来た。
「ずっと見守ってくれるから、こんなふうに空へ近づく塔が建てられるんだなぁ」
この聖堂はアーサーが見知った構造であることから、アーサーらが信じる神のためものだろうと推測できる。そう考えると、地下聖堂の図書館で不思議なほどにウルがその空間に馴染んでいなかったのも頷けるとアーサーは思った。
現代的な魔鉱石の光源を一切入れず、月明かりのみで輝くにしても明るすぎるその聖堂の中で、採光窓のステンドグラスから入った月の光を映し出すウルの銀の髪は極彩色に煌き、その存在を強く主張する。
まるであの花畑とは違う。ここではウルの方が異質な存在だ。
「ずっと、返さなきゃって、思ってたんだけど、」
祭壇へ向かってアーサーに背を向けていたウルは、妙に改まった声で聖堂に声を響かせた。
振り返ったウルは初めてあの花畑で顔を合わせたときのように髪で青い右目を覆い、極彩色を写し込んだ銀の瞳でアーサーを見つめる。
「……五年も預かってたから、なんだか離れ難くて」
ウルに左手を取られて、アーサーはなすがままに差し出した。
赤い外套を視界に入れて火のように赤く染まったその瞳の色はローレンスと同じ色のようにも思えた。
慈しむようにアーサーの左手を撫ぜ、視線を向けることで伏した目には、銀の睫毛が光を返して細く長い様を見せ、深い影を落としている。
取られた左手の、薬指に差し込まれたのはシンプルな指輪だった。
「これ、」
「遺品だよ。きみのお父さんの」
サイズが大きい指輪はアーサーの手には不釣り合いで不格好にも見えたが、アーサーはこの指輪を知っているし、胸がいっぱいになるほどの懐かしさを感じた。
ローレンスが眠る時でさえ肌身離さず付けていたリングだ。指輪の内側には、顔も知らない母親の名前と、ローレンスの名前が並んで彫り込まれている。
「きっとアーサーが持ってるべきものだから、返すね」
「……ああ。ありがとう」
ウルの瞼は下され、指先で手繰るようにアーサーの左手を撫ぜる感触がくすぐったかった。
こうして二人の間に時々訪れる、じわりとした静寂をアーサーは心地よいと思う。
触れ合った指は絡め取られ、サイズの合わない指輪は浮いていた。
「ねえ、アーサー。キスしていい?」
静謐な聖堂に響いたウルの思いもよらない言葉に、アーサーは頭が真っ白になった。
「はあっ⁉」
アーサーが思わず目を見開いてウルを見ると、くりくりと光る青と銀の双眸がアーサーを見ていたずらっぽく笑った。
「い、良いわけないだろ!」
「けど、二回もしたよ? 熱烈なちゅー」
「言うなよ! 流されただけなんだからな! そう思うなら、なんでわざわざ確認を取るんだよ!」
「あはは、ごめんね。最初は話を聞いて欲しかったから。怪我させずに無視できないことって何かなって思ったんだぁ。二回目は……我慢できなくて?」
こみ上げる羞恥心が顔に熱を集める。
アーサーは頭を抱え込んだ。絡み合った指が邪魔をして実際に頭を抱えることはできなかったのだが、そういう気分だった。
話を聞いて欲しかったからというだけで殆ど初対面の相手にキスできるのかとか、二回目についてわざわざ細かく説明しなくて良いだとか、だったら今確認を取ったのは改めてなんなのか、とか。
いや、聞いたら聞いたで親切にも答えてくれそうだから、それを口に出す勇気は俺にはない。混乱がアーサーの頭を支配する。
「好きだよ、アーサー」
「なんだよ、急に……」
ウルがアーサーを好意的に見ていることは知っている。
キスに確認を取られたり、ローレンスの指輪を薬指につけられたり、もしかして家族愛や友愛といったものとは別の、熱のようなものをアーサーはようやく、今更に感じはじめて、胸には急に羞恥心が湧いてくる。
たじろいで一歩引いた足は絡めた手を引かれて、逆に距離を詰められた。真っ直ぐな青と銀の瞳がアーサーを見つめる。
「アーサーも初めてだった? おれ、ファーストキスだったんだよ」
「あぁいや……、それは別に……あ、いや……うん」
何か答えた方がいいのかと頭を捻っていると、急にかけられた問いに別のことを思い出してうまく口が開けなかった。その様子に目を見張ったウルが絡めていた指を離してアーサーの両手を両手で包み込んだ。
というより、握り込んだ。
「……待って。言い淀むの? そこで? 都会ってそんなに進んでるの?」
「都会とか関係ないだろ! あれはレンが……待て、待て……違う、そうじゃなくて!」
「レンくん⁉」
思わぬ名前が出たことでウルの耳がぴくりと動物的な反応を見せる。
焦ったような、ショックを受けているような、そんな表情で唇を震わせたウルが小部屋へと駆けていく。あっけらかんと直接的に問いを投げかけるウルのことだ、レンに問いただすつもりだということは簡単に想像がついて、アーサーは慌てて声を上げた。
「変なこと聞くなよ頼むから! ちっさい頃だったし!」
「五歳差でアーサーの『小さい頃』は全然信用ならないよ! アーサーがじゃれてるだけのつもりでもレンくんはどうだかわかんないんだもん!」
「たった五つだろ⁉」
聖堂に伸びるそこそこ長い道は、アーサーが全力で走ればウルを捕まえることも不可能ではない。
ただアーサーにそれを追いかける気力はなく、ただ「好きだ」と言われたことが胸の奥を占めていた。
それは、どういう意味なのだろうか。
結局のところ、想像通りウルからアーサーのファーストキスについて問いただされていたレンはニヤニヤと意地の悪い笑みを浮かべており、アーサーが小部屋へと戻った瞬間に「だってオレ様、アカちゃんのこと大好きだもん。甘くて美味しかった」と事実を肯定した。
ウルは「それだけじゃ信用できない!」と食ってかかったが、イオンが苦笑を溢しながら頷いたことで膝を折ったのは言うまでもない。
夜も更けて街の明かりが消え去ったところで、やはり都会の空に星は瞬かない。
黒に染まった空を見上げて、ここは随分と寂しい空だなと息をつく。冷めた空気が頬を撫でて、地下聖堂の息苦しさから解放されたウルは教会の玄関扉の前でグッと背伸びをした。
アーサーに合わせて早めに眠る生活が続いたためか、夜明けまではまだ時間があるというのにぼんやりとした眠気を感じ取る。
(狼って、夜行性だったよなぁ)
犬みたいに家畜化されて昼行性になることもあるのかな。そんな馬鹿げたことを考えて、一人で笑った。
「探し物は見つかったか?」
イオンの硬質な声が背後から掛けられる。感情の乗らない平坦な声は夜が更けた現在も変わりない。
扉が開かれた音は一切しなかったが、ここがウルが持つ聖域——〈毒の花畑〉のような場所だと考えれば、この空間の持ち主であるイオンの都合のいいように動くことにはなんとなく合点がいった。
「……うーん、ほどほどに?」
朝が早い代わりに眠りにつくのも早いアーサーに連れ添って一緒に眠りについたのはレンだったらしい。
三日前に森を彷徨っていたアーサーはひどい有様だったというのに、二人の仲は思ったよりも早く戻りそうでよかったな、とウルは胸を撫で下ろす。
ファーストキスは看過できずに騒いでしまったが、意外と馴染んでいることに安心したのは紛れもなく事実だ。
「イオンくん、聞いていい?」
「俺が答えられる事であれば。」
「きみは何者なの? こんな図書館、普通じゃないよね」
「言っただろ。極一般人だよ。強いて言うなら、教会図書館の管理人。」
硬質な低い声が淡々と答える。管理人という単語にも疑問が残ったが、やはり問うたところでなにも返ってこないだろうと早々に諦めをつけた。
「ここで祈りを捧げられる神様について聞いたよ」
「そう。どうだった?〈原始の神々〉から見て、その信仰は」
「アーサーは一人じゃないんだなと思った。いつも、祈りを捧げてる。最近は俺と一緒にいて、お祈りを忘れることも増えちゃったみたいだけど」
「神が見守っている。俺たちも、」
ウルは尻尾をゆっくりとゆらめせた。
「一緒には居なかったけど、見守ってたって? 用立てもなく再会したきみに、困っていたけど。わざわざ、おれの方に用があるなんて言っちゃってさ」
ウルは半ば無意識に、棘のある言葉を選ぶ。
らしくないな、と内心で思いながらも、それを止めることはできない。
「アカとは、会う心算 は無かった。お前が居たからだ。」
「よりひどいよ」
アーサーを大切にすること、友達として仲直りすることに関してウルは全力でそれを応援したいと思っているが、アーサーを傷つけたことに対しては許せそうもない。
「縋りたい時に縋る相手がいないのは悲しいし、寂しいよ。レンくんが別のことを考えてどっかに行っちゃうことも、わかってたんでしょ?」
「知っていた。最初に『いらない』と言われたのは俺の方だったから。」
「なら、どうしてこんな場所に籠もっていたの」
イオンは言葉を選ぶように少しの間口を閉ざした。
——慎重に言葉を選ぶイオンという一人の人間のことを、ウルは愛しいとも思うし、憎いとも思う。仲良くしたいとも思うし、それでいて自分がレンやイオンと仲良くしているのは想像がつかないとも思う。
自分がなにをされてもあまり気は病まないのだが、アーサーを放っておいたことだけはどうにも許せそうにない。
「俺には、関わる資格が無いと思う。あいつらに、俺が関与して良い事は一つも無いと実感してしまった。」
イオンがやはり、平坦な声で告げる。ほんの少しの揺らぎを持った言葉と、爪先へ落とされた視線に、ウルは胸が痛んだ。
そんなことを言い出すと、自分自身は到底アーサーの前に立つことなど許されない存在だろう。五年前にアーサーをあの花畑に呼んだのは自分なのだから。
毒の花畑という閉ざされた聖域を開いて、再会して、父親の尊厳を守ってくれたのだと心の底から実感した時。——いいや、もっと前だ。大きな銀狼がウルを改めて攻撃対象に入れた時、怒りに震えたアーサーが怒鳴ってくれた時。
あのとき、胸の奥から湧き出たのはひどい熱情と、欲望だった。
「誰かに求められるなら、アカはそれに応えようとする。」
「……うん。知ってるよ」
ウルだって、最初はアーサーをただ利用するだけのつもりだったのだ。
おかしくなってしまった父親を見ることが苦しくて、耐えられなくなった。生きるのが苦しくて、結局のところ、打算深く自分を殺してもらうことだけを考えていた。
そんなただの『逃げ』をアーサーは受け入れずに、想像以上の、本当の救いを与えてくれたのだ。
自分で死を選ぼうとしても体は毒を分解して、刃物は不可解なほどに軌道を逸らす。現実を捻じ曲げる存在。親と子の関係を持ち、代替わりをして、老いるウルが珍しいのだと父親に教えられた。
世界の法律そのものとも言える〈原始の神々〉は、世界が滅びでもしない限りは死を選ぶことができない。
イオンは様々な事情を知っている。
ウルたちと出会った時から今に至るまで、レンは当たり前のように起きた出来事の内情だけを語り、アーサーはあの図書館と幼馴染みとの唐突な仲直りに当惑しているのみだった。
もちろん、ウルだって特に事情を説明したわけでもないし、そもそもイオンはそれまで会ったこともなかったウルの調べ物の内容を知っていて図書館を開けると言ったのだ。
「それと。……俺のこと、〈原始の神々〉って呼んだけど。きみはさ、なにかを知っているの?」
それは一般的な名称だとは到底言えない。神殺しのように深く関わる魔法を持っていない限りは「天使か妖精」という認識がせいぜいのことだろうし、古い書物でその単語に言及されているものに関しては、それがどんな存在かということすらも記載は残っていなかった。
普通は知る機会などないのだ。それこそ、ウルが先ほど調べた資料の内容や、それ以外にあるであろう資料の数々の内容を知らなければ到底、ウルのことを一目見ただけで原始の神々という言葉は出てこない。
「……何の事だか。」
イオンは白々しく肩を竦めて、煙草を取り出す。これ以上話す気はないといった態度だ。なにか問うたところで、答えてはくれないだろう。
教会の外へ足を進めると、見知った空間の繋ぎ目が見えてウルは苦笑した。イオンは、ウルが夜にこの場を離れるとは思っていなかったみたいだ。
聖域は条件さえ合えばどこからどこにでも繋ぐことができる。だが、急ごしらえで作られた道はその違和感を消すことができない。
五年前にアーサーが夢に見た道を辿れば何の違和感もなく簡単に花畑に行き着くことができたように。或いは、三日前にアーサーが先の見えない暗い森で一歩を踏み込んだ瞬間に周囲が花畑へと変貌したように。
「お前の旅路に、神の恩寵がありますように。」
イオンの声は、夜の空に消える。
——あぁ、自分なんて大っ嫌いだ。
荘厳な教会建築の片隅に作られた質素な部屋には、聖堂の浮世離れした雰囲気とは違って馴染みのある生活感が漂っている。小さな窓の外には植え込みに囲まれた芝生が見えて、空を覆う雲のために幾分柔らかくなった光が森とは違う温度で窓から入り込んでいた。
地平から出て数分、暁紅に染まった空がほどなくして青に染まる。
寝起きの体に絡み付いた細く長い華奢な腕と、距離の離れたソファで規則的に揺れる低い呼吸に、幼なじみ二人と再会したことは現実なのだと、じわりと実感が湧いてきた。
昨日はウルが(くだんのファーストキス騒動で)大騒ぎしたことで、アーサーは居所のない恥ずかしさに襲われながらレモンドリズルケーキを食べることになった。
ファーストキスだなんて考えたこともなかったがために、レンがしたり顔でウルに自慢する意味が最初は分からなかったのだが、結局のところウルの心は「アーサーも初めてだと思ってたのに!」という就寝前の泣き言に集約されるのだろう。
思い出して、アーサーはまた落ち着かない気持ちになる。
当時、レンがローレンスにキスを仕掛けたのが事の始まりだった。そこにいない「アーサーの母を裏切ることはできないから」とやんわりと丁寧に断られたレンは、あろうことかアーサーの唇を奪ったのだ、舌入りで。
キスをされたアーサーは全力で殴った。それはもう五歳年上のレンが本気で泣き喚くほどに。
「けどほら! 今はちゃんとキスできるぜ! ナカヨシ! 超ベリーキュートなオレ様の美貌に磨きがかかってるし、アカちゃんもオトナになったからな?」
「今も殴る」
それを聞いたウルが「おれの時はどうして殴らなかったの?」なんて笑ったために、ぐっと構えられていたアーサーの拳はウルに対象をシフトして突き上げられた。
それからレンの機嫌は目に見えて悪くなり、イオンがウルとアーサーの間の席から離れなくなったわけだが、それもそれで楽しかった。
「つか、重……」
テディベアか抱き枕かといった様子でアーサーの体を背後から抱き寄せる腕を、レンを起こさないようにゆっくりと退ける。
騒ぎに騒いで、結局その日は教会に泊まっていこうと話してベッドを借りたのだ。
アーサーとウルの二人で並んで寝るのさえ体が悲鳴を上げていたというのに、そこにレンも加えて身を寄せてシングルベッドで寝るのは流石に厳しかったんじゃないかとため息をついた。
寝返りを打つ隙がなかったために、凝り固まって軋んだ体にはどことなく違和感がある。ソファで一人、シングルベッドで三人寝られるというレンの提案を拒否しなかった己の判断を恨むしかない。
ウルの姿が見当たらず、また自分の足元で丸まって寝ているのかと呆れて足でシーツを蹴っても、その体温は見当たらない。熱中して調べ物をしていた様子だから、もしかして早くに起きてあの地下聖堂でまた本を読み漁っているのだろうか。
何を調べているのかは想像がつかなかったが、「三週間何してた」という問いに散歩と答えたウルの言葉が嘘を孕んでいたことだけは、書物を読み漁る真剣な横顔から察することができる。
「……おはよ」
誰に言うでもなく小さく呟いた。早起きは一種の癖みたいなもので、起きていない人間を起こすほど早起きに信念なんかがあるわけではない。
誰に言うでもない朝の挨拶もただの癖のようなもので、ただ、その一言だけで目を覚ますウルが動物のように低く唸って丸まった体を伸ばしながら「おはよう」と返す気のない返事が返ってこないのは、三日も近い場所で寝ていたからか。アーサーはほんの少しの物足りなさを感じた。
アーサーは眠気に揺蕩いながら起きた終えたあとの計画を考える。いい時間になったら調べ物の続きをしているか、そのまま寝落ちているであろうウルも呼びに行こう。
この教会の朝は商店街ほど賑やかではないが、石造りの建物だからこそ生まれる、早朝の冷めた空気は嫌いじゃない。
上階の聖堂で祈りを済ませ、教会の内部を散策していたアーサーは、寝泊まりした小部屋と近い場所に小ぢんまりとしたキッチンとパントリーを見つけた。
整った設備の割に使われていなさそうな調理台に視線を落とし、パントリーに並ぶパン類と大量のジャム瓶、それからトマトやレタスなどの火を入れずに食べられる野菜の数々にため息を漏らした。
イオンが料理をしないことは少し意外にも思えたが、ともかく最低限の食材と調味料は揃っているようだ。多少腹を満たすくらいの朝食は作れるだろう。
四人分の食事の準備だなんて久しぶりだな、と食材を選定しながら、ため息をついたはずのアーサーの口の端はにわかに上がり、気がつけば鼻歌がこぼれている。
今日は一人じゃない。
今日も、一人じゃなかった。