Bamboooth

topimage
呪われた神様

 開けっぱなしにしていた窓からそよ風が入って、そこに居るかもしれないと反射的に上げた視線の先には誰もいない。

 静かな部屋にはアーサーの呼吸だけが響いていた。

 ソファに残したタオルケットは人の気配を残している。アーサー自身が使った覚えのないそれは、ウルが使っていたのだと思って、ひどく胸の奥が空虚に思えた。

 ウルが消えて、三日が過ぎた。

 あの日の朝、朝食が出来上がってほどほどの時間になり、時間を忘れて調べ物をしているであろうウルを呼んでやろうと地下聖堂へ行ってもその銀色は見当たらなかった。

 ならば朝の空気を感じに外に出ているのかと思って教会の扉を開いたところで、整地された芝生の広場には人ひとりとしてその影は見当たらない。

 結局のところ、四人分用意した朝食は一食分余ることになって、さも当然といった様子で残った皿のおかずに手を伸ばしたイオンの手を掴んだのはアーサーだった。

「あいつ、地下の図書館にもいねえんだけど。どこに居るか知らねえ?」

「ウルは夜のうちに出て行った。」

「はぁ? 出かけるにしたって早すぎるだろ」

「街中よりは森の中に居た方が幾分安全だと踏んだんだろう。前の銀狼も、街にまで出て来て暴れる事は殆ど無かった。」

「……話が見えねえんだけど」

 飛躍した発言の意図が読めずに眉を潜めてイオンへ真っ直ぐ視線を合わせると、肩を下げてため息をついたイオンが言葉を探るように視線を宙へ逸らした。

「オレ様に殺されるのが怖くて逃げたんだよ。そンだけだろ」

 沈黙を破ったのはレンの声だ。

 紅茶を混ぜたスプーンを手遊びに舐め上げ、シュガーポットへ手を伸ばしたレンは、世間話でもする様に「殺されるのが怖くて」と口にする。

「殺すって……」

「話せる相手みてぇだから一応依頼元に確認するけどなァ」

 最初はローレンスを殺した銀狼だと思い込んで攻撃を仕掛けたのだと思っていたが、それでは説明のつかないことが多すぎた。

 元々はローレンスにべったりだったレンが、その仇だと知っていて昨晩の様に仲良く会話することはないだろう。

「どんな物騒な仕事だよ」

「依頼元も仲介したユニオンも、討伐対象……『銀狼』が意思を持つ個人だと思っていないんだろうな。」

「そ。フツーの仕事だよ」

 そこから先のことは、よく覚えていない。

 大きな銀狼を倒してから都で囁かれるようになった、夜に現れる大型の獣の話はアーサーも聞いていた。

 レンの攻撃によって現れたウルのあの姿を思い返せば、当然その噂とウル本人が関係していることは間違いないだろう。

 しかし、かと言ってなんだというのか。真夜中に出る獣が人間に害を及ぼしたとかそんな話は聞いたことがないし、野生動物の騒ぎも収まっていたはずだ。

 ウルの言葉を思い出す。——「五年前、お父さんは急におかしくなった」

 様子がおかしかったのはもっと前からだと言っていて、五年前のあの時、ローレンスが『食べられた』あの瞬間、ウルの知る父親の姿ではなくなった。

 アーサーはそんなことをずっとぐるぐると考えていて、気がつけば三日が過ぎていた。

 のんびり料理を用意して待っていれば、ウルは呑気に玄関の戸を叩いたり、以前のようにベッドの足元で丸まって寝ているのだと、どこかで思っていた。

「あいつ、調べ物してたんだっけ」

 ひとりになった部屋で、呟く。

 アーサーはずっと入っていなかったローレンスの書斎の扉を開いた。家の大掃除をしたひと月前以来のことだった。

 何年も使われていないその部屋に生活感はなく、誰も触れた痕跡はない。

 ウルの存在感は希薄で、すぐにでも見失ってしまいそうなものだが、落ち着いて探せばきちんとそこに存在している。微かな、甘い花の匂いがするのだ。

 ウルがユニオンホールに入り浸っていたことを思い出し、アーサーの足は自然とユニオンホールへ向かっていた。

 レンズ越しに明るい水色の目がアーサーを見つける。カルムはカウンターを通り抜けて地下への階段へと向かうアーサーに声をかけた。

「おかえりなさい。おはようございます、アカちゃん」

「カルム、地下入るぞ」

「え? ああ、大丈夫ですよ。書庫といえば、ウルくんは一緒じゃないんですか? あの時アカちゃんを追いかけてったので、一緒にいるのかと思っていたのですが」

 カルムの言葉も無視をして、アーサーは階段を駆け降りる。

(この地下も書庫だったのか)

 ユニオンホールの地下に人の気配はない。カルムの執務机は彼の性格のとおり綺麗に整理されており、ソファの上では白い猫があくびをしていた。

 ウルが最後に読んでいた本の記憶を遡りながら、古い伝承について書かれていそうな本棚を探す。あの時真面目に見ていればよかったと後悔が募るが、考えたって仕方がない。

 適当に開いた本は古く、ホコリくさい。しかしその匂いに混じって、柔らかな花の香りがした。

 ぱらぱらとページをめくっていると、白い猫が開いたページの上に乗って、ゴロンと本に背をなすりつけた。

「ちょ、読めないだろ」

 カルムの飼い猫のうちの一匹である猫をどけようとしたところで、開いたページにある一つの記述が目に入る。

「……、呪い」

 猫が甘えた鳴き声を上げて、本の上から退いた。

 その記述がやけに気に掛かり、ページを送らずにかぶりついていれば、アーサーはそのページに花の匂いが残っていることに気がついた。気にしていなければ気がつかないほど微かで、穏やかな気持ちにさせられる花の香りはウルのものだ。

 ——呪いは、あらゆるものが『存在の形』を変えてしまう現象を指す。

 存在の形というものをアーサーはいまいち想像できなかったが(だって、呪いは形ないものにも起きる現象だ)、とにかく呪われた対象は、呪われる前とは違う存在になってしまう。例えばそれは、この国の伝承における『極彩色』のあり方だ。鮮やかな有彩色を持つ毒の花は群生しない。

 アーサーはふと、最初に会った時のウルの言葉を思い出した。

 ——「個体としての人格なんてものは『存在の定義』の前で意味を為さない」

 ——「おれとあの人は、同じもの」

 当時も今も全くもって意図を理解できないが、ウルの言う『存在の定義』が銀狼を指していたとして。

 ウルの父親ではなく『銀狼』という存在そのものが呪われていたとするなら。違うカップに注がれただけの、同じポットで入れた紅茶なら? ウルも、ウルの父親と同じようになって、人を食べたりしてしまうのだろうか?

 けれど、だったら尚のこと、神殺しの魔力があるアーサーが近くにいた方が都合が良いはずだ。元々ウルは殺されたがっていたのだから。

 ウルはなんのために、アーサーの目の前から姿を消したのだろうか?「好きだよ」と笑った、真剣な目を思い出す。春空のように爽やかで美しい、浅い空の青と、全ての極彩色を写し込む銀の、印象的な瞳の色。

 それはアーサーにとって、あの花畑のように求めてやまないものだ。

「ごめんね、アーサー」

 ウルから受け取った遺品——ローレンスの指輪は、指につけるには大きすぎて、チェーンを通して首から下げることにした。書斎に置いて行こうかとも少し考えたが、今これを手放せば、三日も姿を消しているウルすらも、手が届かなくなるような気がしたのだ。

 数日前落としてしまったもの代わりのブレスレットを片手につけて、猟銃を担ぐ。

 五年前とすっかり変わり果てて重苦しい空気を醸し出すその森は深く、暗く閉ざされ、ほんの少し薄暗いだけだった木々の間は深い闇が覆っていた。

 鈍色の空だったとしても都には雲で柔らかくなった陽が絶え間なく降り注いでいたというのに、森の中では天を見上げても夜のように暗く、また都の夜よりも深い。

 湿った地面を踏みしめながら、五年前と同じ道のりを辿る。

 その先に、花畑はない。

「どこ行ったんだよ」

 二度目に出会った場所。三度目に呼び込まれた場所。森のどこを探してもアーサーの知るあの極彩色は見つからない。

 森の奥深く、深く、入り込めば入り込むほど森の闇も濃くなっていた。

 木々はアーサーの見知った形を失いつつあり、魔物に追われて猟銃を撃ち放てばその音を呼び水にしてまた魔物が現れる。

「いつもいつも……、くそっ、」

 変質した植物に足を取られ、治りかけていた擦り傷はまた新しく血を流した。痛みに顔を顰めながらアーサーは銃を構え直して足を進める。

 できる。探さなければ。自分を求めているあの空の色を。ローレンスが居ない今、アーサーが探さなければウルの声は誰にも届かない。

 ふとアーサーが視線を上げれば、暗い森の中にはひと筋の光が見えた。

「花畑!」

 深く暗い森の中で木々の間から光を漏らす様は、アーサーからすればあの場所しか存在しない。体の痛みも忘れて、走り出した。

 森を抜けたアーサーの眼前に広がったのは、極彩色の花畑。

 木々の葉は不自然なほど確実に途切れ、眩いほどの光がアーサーの視界を突き刺した。

地面に広がり、風に舞う花々はどれもうつくしい色をしている。

 立ち上がる炎の様に鮮烈な紅、燦然と輝く太陽の様に煌く金、遠く広がる海の様に深い蒼。

 アーサーが探しに探し回って見つからなかったはずの花畑が目の前に広がっている様はおおよそ現実のものとは思えなかったが、胸を満たした、むせ返るほどの甘ったるい花の匂いが目の前の光景を現実のものだと示していた。

 アーサーは、もうその奥に佇む輝きを知っている。

 絶望的なまでにうつくしいその様、巨大な体躯、極彩色の色を返してはその色を浮かび上がらせる、艶やかな銀の毛皮、銀の瞳。

 銀狼はアーサーの姿を認めると、そっぽを向くように鼻先を天へ向ける。極彩色の花畑に、甲高い遠吠えが響いた。

 駆け出そうとアーサーが足を踏み出したところで、立ち込める匂いに目眩が襲う。

「……なんだ?」

 目眩の次は頭痛が襲う。胃が引き攣るような痛みを訴えて、喉奥は収縮する。

 何かを考えようとして、霧散する思考に気が遠くなる。

 軋んだ体は思うように動かず、一歩足を進めるたびに力が抜けて、アーサーは銀狼の元へたどり着く前に花畑の中心で倒れ込んだ。

 覆いかぶさるように、花々は蔦を伸ばした。棘を持つ草花が絡みついて、アーサーの皮膚に深く突き刺さる。強い眠気に襲われ、そんな場合ではないのにあたたかな陽に微睡みかけた瞼は、体に襲った強い衝撃で見開くこととなった。

「っ、あ……、」

 鉤爪が蔦を千切り、アーサーの体を天に突き上げたのだと認識するのに、アーサーは数秒の時間を要した。

 むせ返るほどの甘い匂いからほんの少しだけ脱して、その甘い匂いが花畑の毒の草花が持つものだとアーサーは思い至る。それまで全く意識していなかった毒の存在を、今更強く感じるなんて、おかしな話だ。

 毒に蝕まれた空気を吸ってはいけない。新しい風を運ばなければ。そう思って、どうにか魔法を放つ。

——風よ吹け、嵐のように!

 中空に打ち上げられながらアーサーは風を起こす。そよ風のように頬に触れる体温を思い出していた。

 地面に打ち付けられた体を、銀の狼は狙い定めたようにまた鉤爪を振るう。避けきれなかったことで爪が腹にめり込み、生暖かい血がシャツに染み広がる感触を感じる。

 地面に転がった体にはまた草花の棘が刺さり、痛みを耐えるために息を止めれば強い吐き気に襲われた。

 魔法で起こしたはずの風はアーサーが想定していたよりもずっと弱く、滞留する空気を換気できていなかった。

 人間が魔法で変えられる自然現象は現実のほんの一部に過ぎない。どれほどの魔力が必要なのかすらもその日ごとに変わる繊細なものだ。この花畑の何かによって魔法の力が思ったように行使できなかったのだと、アーサーは理解した。五年前のローレンスが言っていた。花畑には銀狼の味方をする聖霊が多すぎる。

 アーサーはウルと〈毒の花畑〉で何度も出会いながら、それらの毒を一度も意識したことはない。それは、ウルが森で茨の絨毯を退けたように、あの空間に充満する毒をアーサーの知らないうちに中和していたからなのだろう。

 相対する銀狼はずっと、敵意を向けてくる。この花畑は、アーサーを歓迎していない。

 狼はぐるると低い声で唸った。

「ばか狼、聞けよ。……頼むから」

 アーサーは今まで受けた傷と毒でもう手一杯だった。激しい頭痛と目眩に襲われながら出した声は、引き攣った喉のためにか細く震えている。

 魔法が使えたところで、銀狼に弾丸は当たらない。何だったらウルに届くのだろうか? アーサーは自分の血が持つ力に思い至り、脈を立てて溢れ出しながら自分の腹を伝う血を手で掬い上げて口の中に含んだ。

 蒼の魔鉱石はここに存在しないから、以前のように水と一緒に血を撒き散らすことはできない。それでも可能性はあるんじゃないかと、藁にもすがるような思いだ。

 ウルを殺すだなんて、アーサーは考えていなかった。考えたくもなかった。

……届け、水よ。想いよ

 思うように動かない体と、思うようにならない魔法に顔をしかめながら、アーサーは震える声で聖霊に呼びかける。

 低く唸る銀の狼は微動だにせず、銀の瞳はアーサーの赤い外套の色を写している。

 アーサーは脱力した体でその頭にのしかかるようにしながら、銀の狼の鼻先から頭を抱きしめる。幾つかの血の滴が宙を漂い、瞼にキスを落とせばその滴も銀の毛皮を赤に染め上げた。

 抱きしめられた銀狼は、長い沈黙を経ても、その大きな体躯を見知ったウルの姿のものへと戻さない。もう、体は戻らないのだろうかと不安になって、アーサーは力の入らない体で強く抱きしめる。

「……ばか狼?」

 伺うように声をかけた瞬間、大きな口が開いて、目の前が真っ暗になって、その牙はアーサーの目の前に差し迫った。

 なにもできない、どうすることもできない。

 俺は特別じゃない。

 だから、俺がなんにもできないなんて、俺がいちばんよく知ってる。

「助けて」と呼ばれた。「好き」だと言われた。

 けど、自分がそんなのに値しない人間なんてこと、俺がいちばんよく知ってる。

 アーサーは寸でのところで体を地面に落とし込む。どうにかその牙を避けたあと体勢を立て直すことは叶わず、花畑を巻き添えにして回避のために地面を転がれば、毒の棘が皮膚を突き刺した。

 銀狼は低く、低く唸り上げる。何もできない。アーサーの声は届かない。

 花畑の上を転げ回る様子がおかしいのか、銀狼は地面を転がるアーサーを何度か踏みつけては呻く様を見、大きな脚で蹴り上げる。

 目の前の銀の獣が皮膚が腫れ上がるような様子もなければ、血へ魔力を注いでみてもその毛皮が煤けることはなかった。

 ひと月前、暴走した銀狼を焼き殺したあの時とは違う。アーサーの血のこびりついた手で引っ張った後に肌を赤く腫らせたウルとも違う。あの時のウルにとって、確かに〈神殺し〉の血と魔力は毒になっていたはずだ。それが何故?

 ——目の前にいる銀の獣は、もしかしたらアーサーの知るウルでも、『銀狼』でもないのかもしれない。

 そう思っても、アーサーは何もできない。

 明転。暗転。極彩色の景色がチカチカとその色を輝かせ、花々の毒に侵されたアーサーの目には痛いほどの刺激になる。

 上からのしつけられた体が獣の巨体によって軋み、生温かい獣の呼吸が目の前に迫った。鼓膜を破るほどの大きな遠吠えが花畑に響いて、アーサーの目の前には鋭い牙が、今度こそ差し迫る。

(あぁ、もう終わりだ)

 目を瞑って死を待っていても、アーサーの体に覚悟していた痛みは訪れなかった。

 仰反った獣のか弱い鳴き声と硬質な金属の擦れ合う音が聞こえる。

 ふっと体を押さえつけていた体重が浮き上がり、何かの力によって体が強く引かれる。

鎖の音を響かせながらアーサーは強い力で引かれ、しっかりとした体に抱き留められた。

「アカ‼」

 抱き留めた体を見上げれば冷や汗を垂らしたイオンが居る。その背後にはあの巨大な教会図書館があった。

 先ほどまでは存在しなかった空間が、不自然に極彩色の花畑とつながっている。

 異様な光景に息を呑んでいると、教会図書館は瞬く間に森の奥へと隠れるように遠のいてしまった。

 アーサーは何が起こっているのか疑問にも思ったが、それよりも今は自分を抱え上げるその体温への安心感に胸がいっぱいだった。

 イオンはアーサーに視線を合わせてめいっぱい抱きしめたあと、顔を上げて花畑の中心を見る。

「やれ、レン!」

「うっせぇ! 言われなくても、あのクソ狼!」

 凛とした、存在感のある端正な声が花畑に響く。

——奏でろ、風よ! 歌え、水よ! 鳴らせ、大地よ! 舞い踊れ、炎よ! 世界を創った子らの声を聞け!

 打ち鳴らされた鈴のように不自然に響いた声に振り返ると、全ての光を飲み込んでしまうほどに深く黒い髪が風に揺れていた。

 目では捉えきれない、鋭い刃となった塵と風が銀の獣の皮膚を切り裂き、その血は通常では考えられないほど大きく飛沫を上げる。跳ね上がる獣の体を押さえ込んだ巨大な鉱石はそこを起点として、赤く、熱が破裂するような音が響いて視界が明滅する。

 黒い煙に包まれながら銀狼は高く高く遠吠えを上げる。キラキラと輝く光がなにに反射しているのかは全くわからなかったが、その強力な魔法が銀狼に届いていないことだけは確かだ。

 レンが苛立ったように舌打ちをする。

運べ。巡れ。留まれ。死して甦れ! ……あぁクッソ! やりづれェ!」

「敵地 アウェイ なんだから当たり前だ。ずらかるぞ、レン」

「クッソ覚えてろよクソ野郎! オレ様たちの可愛いアカちゃんをボロボロにしやがってクソ!」

 興奮した様子で怒鳴り続けるレンに、イオンがもう一度嗜めるように名を呼んで走り出した。アーサーを抱えたまま焦ったように逃げ出す二人の様子に、アーサーは既視感を覚える。

 五年前、花畑から三人で逃げた。

 思わず花畑を振り返るが、そこには何も——あの銀の獣さえ存在しない。