花畑から逃げ出してアーサーを抱えたイオンに疲労の色が見えはじめた頃、レンは「とりあえずココでいいか」と木の根元に腰を下ろした。
イオンは同意するように抱えていたアーサーを下ろし、そのシャツを捲り上げる。毒のためかあまりのことに興奮しているせいなのか、痛みは麻痺しているが、一番出血の酷かった腹は未だにどくどくと脈打っていた。アーサーに言葉を発する余裕はなかった。
「レン、なんか魔法具貸せ。無駄な装飾の無い奴」
「あ? てめェのロザリオはどーした」
「魔法士用の特注品じゃ無いから治癒には向かん。森を歩くだけなら兎も角、精密な作業には向かないからな。お前が治癒出来るならそれでも構わないが。」
治癒魔法と聞いた途端にレンは拗ねたように視線を逸らして、親指からシンプルなリングを一つ抜き取ってイオンに投げつけた。
指先や関節のような魔力節のある場所の傷は治すことができないが、軽い擦過傷程度であれば治癒することも不可能ではない。
不可能ではないというだけで、簡単なことでもなかった。
自然現象を操作するとされている一般の魔法の範疇から逸れているため、理論を初等教育で教えられたとしても聞きかじりの知識止まりになる。それを実際に行える人間はごく少数だ。
「イオン。……なんで、ふたりがここに?」
回りきらない舌でなんとか問うたアーサーに対し、腹の大きな傷口を神妙な顔つきで見ていたイオンは驚いたようにきょとんと目を瞬かせた。
どうして二人は森に居たのだろう。
イオンはアーサーと視線を合わせたまま黙り込む。深いため息をついて言葉を選びあぐねているらしいイオンに、アーサーは一層困惑を深めた。
治癒を受けて痒みの走る体と沈黙が息苦しい。根負けして視線を彷徨わせたアーサーは、レンのブーツの編み上げの数を数えることにした。
編み上げの数が十を超えたあたりで、口を尖らせたレンが二人のそばでしゃがみ込む。
「アカちゃんの怪我を大急ぎで治療してるヤツがさ、なんで森に来たのか。本当にわかんねェなら、アカちゃんも結構、鈍感だと思うよ。オレ」
「それは、感謝してるけど」
(イオンは焦っていたのか?)
森の新鮮な空気は体温の上がってしまった肺の奥を冷たく満たして、頭の中まで静かに澄み渡る。傷の痛みが落ち着いてきても、自分が何を言われているのか、アーサーはいまいち理解できない。
いよいよレンまで呆れたと言った様子で深くため息をついて、イオンは諦めた様子で黒くて長い上着の内ポケットから大判のガーゼを取り出した。
「むずかしーなぁ……」
レンの指が、アーサーの頬を撫でる。装飾的で重そうな指輪がいくつもついた両の手で頬を包み込んで、額を合わせるように朝焼けのような深い紅の瞳がアーサーの赤い目を覗き込む。
「心配して来たんだよ。何しでかすかわからねェ銀狼が森に帰ったってわかってんのに、アカちゃんが森に行ったって。聞いてひっくり返ったわ」
「俺は引っ張って来られただけだが。」
「よく言うぜ。何が準備万端でコーヒー飲みながら『遅かったな』だよ、ふざけンな」
「ともあれ、心配はする。」
レンの言葉を誤魔化すようにイオンは話を切り替えた。
「……そう」
アーサーはなんと返していいのかわからず、生返事をするしかなかった。
言われてみれば、確かにそれはあり得る話で、想像できることだった。イオンとレンはウルが森に消えたことを知っていたし、夜に出る獣の噂がウルにつながっていることもわかっていたのだから。
それでもアーサーは、二人がアーサーを心配して森を訪れたなんて、想像もしなかった。それだけ二人に期待していなかったとも言えるし、それだけ信用していなかったとも言える。五年の歳月は長い。
「終わった。体内に回った分の毒は血を回して抜くしかない。」
「……ありがと」
応急処置を終えたイオンが眉を下げて困ったように笑った。口の端だけを横に伸ばして微笑むのは五年前と変わりない。表情の薄い彼の癖だ。
(あぁ、そうだった。イオンの表情はわかりづらいんだ)
「致命的な毒草は一応避けてたつもりだよ。問題ない」
花畑を離れてもチカチカと瞬く視界に、アーサーはぎゅっと瞼を閉じる。多少ふらつきながら立ち上がった。
手足の痺れは残るが、魔力さえ持てばどうにか動けそうだ。
体の全神経に集中して、ブレる視界や動作を矯正することを頭に思い描く。運動強化の魔法と似た要領で、アーサーはそれを行った。イメージを補うための魔法具と、言葉による宣言。
それに、血液に魔力を満たし、魔法の媒介にする感覚をアーサーは元々、持っている。
先ほどまでよりも明瞭になった視界に満足して、アーサーは銀の獣に嬲られている間に落とした猟銃の代わりに、腰のホルスターに下げた拳銃を確認する。
「傷が塞がっただけで十分だ」
その一言と動作で、まだウルを探すつもりであることを察したレンがアーサーの腕を取りかけて、何かを遠慮するようにその細い腕は下ろされた。
「好きだって。あいつに言われたんだ。俺、どうしたらいいのかわからなかった。助けてって、言われたような気がして、……怖かった」
アーサーは、力を抜いて下ろされる腕に手を伸ばす。腕を掴まれたことに驚いたレンが長い睫毛を瞬かせてアーサーを見つめた。心底驚いたような表情だ。
「そんなふうに思われても、やっぱり、俺は何もできないんじゃないかって」
『何もできなくていい』と最初に言ったのはレンだった。その言葉にぎくりとしたレンの手を、指輪を嵌めたイオンの大きな手が包み込んだ。
当時は当たり前のことすぎて忘れていたことだ。イオンは昔から何を考えているのか分かりづらい顔をしていたし、レンは大胆な行動の割にずっと臆病だった。
そうだ、忘れていた。それでも友達になりたかった。
五年もの間ろくに会話もできなかった友達を、再び巡り合わせたのはウルだ。
ウルがいなければ、その言葉がなければ、レンに怒りをぶつけようなどとはとても思わなかったし、イオンがどこにいるかなんて考えようとも思わなかった。
それは、五年前にふたりが居なくなったときに、真っ先にやらなくちゃならないはずのことだった。
「本当は手を伸ばさなきゃいけなかったんだ。俺は、そうしたかったんだから」
——ふと、甘ったるい匂いが鼻腔を満たした。逃げた獲物を追いかけて、あの獣が近づいてきたのだろう。
匂いが呼び水になったのか、おさまっていたはずの目眩に再び襲われる。
体勢を崩したアーサーの体を、レンが引き上げた。
「アカちゃんを守るって決めたんだ。それはオレ様が勝手にやってることで」
その手はやはり細身だが、見た目の印象よりも、存外しっかりしている。
「だからアカちゃんも、……好きにしろ」
ウルに会ってアーサーが直接話を聞いて、それが助けになるのかはわからない。
兎にも角にも、ウルはアーサーの目の前に現れたこの獣を持て余していて、温厚な彼が望まない方法で、なにかをめちゃくちゃに壊してしまいそうなのだ。
どんどん歪んで、醜くなった姿を晒す銀色のけだものを、その場にいる誰もがあの美しい『銀狼』と同じものだとは思わない。
「神を呪うとは。器用な事をする奴が居るみたいだ。」
空間を侵食するように、極彩色の花畑が広がる。
花畑がいつの間にか移動していることはもはや珍しくもなかったが、今までと比べても異様な光景だった。周辺にあった草木は急速に枯れ、その地面から緑の芽が出て花を咲かせる。
いびつな花畑が広がり切ろうかという直前、硬質な金属の擦れ合う甲高い音が響いた。
視界には緑の森が広がる。いつの間にか花畑の端に移動していたことにアーサーは声も出せず、振り返れば、後ろには花畑があった。
レンが生み出した魔力の鎖は、銀の獣の体に巻きついてその動きを封じていた。
「——灰燼」
一面の花畑は瞬く間に炎を上げて荒地と化した。
レンの魔法だ。燃え盛った花畑は一瞬にして灰になったが、それもほんの瞬きの間に新たな極彩色の花々が芽吹き、大地を彩る。
「俺が知っている限り、銀狼の聖域……毒の花畑を探す事が出来るのはアカだけだ。〈聖域〉は本来、招かれた者にしか開かれず、何人も立ち入ることのできない神聖な場所。」
どこからか取り出された大鎌が、レンの肩に担がれ、イオンの手元には一冊の本があった。
唸る銀の獣がアーサーとイオン達の間に姿を現す。花畑の端にいるアーサーを狙って、鋭く大きな銀色の鉤爪が振りかざされる。
しかし、その首には大鎌の刃が掛かっていた。
「花弁は火の粉に、花は炎に。——咲け、燃え上がれ!」
立ち上がった炎を、銀の毛皮は今度こそ写し込まなかった。
『銀狼』のように攻撃が当たらないわけではなく、ウルのように魔法を無力化するのでもない。この世に存在しないから魔法が効かないのだ。
この歪な銀の狼は紛い物で、ただキラキラと輝いているだけだ。その姿は陽炎のように揺らめく。
この獣をどうにかしたところで、ウルは救えない。
「一回言ってみたかったんだ。『ここはオレに任せて先に行け』って」
「死亡フラグを立てるなよ。嘆かわしい。……行け。レンも言っただろ、好きにしろ。俺達は昔から、アカの言う事成す事全部を聞いていた訳じゃない。俺達がそうしたいと思ったからあの花畑まで一緒に行った。」
そこに居ないのだから倒せない。アーサーの神殺しの血が何の効果もなかったのはそのためだろう。
背にイオンの低い声が聞こえる。
「——求めよ、然らば与えられん。尋ねよ、然らば見出さん。門を叩け、然らば開かれん。全て求むる者は得、尋ぬる者は見出し、門を叩く者は開かるる。」
アーサーは森へ向けて走り出していた。
光差し込む花畑を離れて闇へ足を踏み入れるのはほんの少し恐ろしくも思ったが、それを止められるほどあの春の空の色をした瞳を忘れられそうにもない。
歪な影となった獣は猛り、唸る。
レンから渡された造りの良い魔法具があるとはいえ、開いた頁では対応しきれない。イオンは己の対処力の低さに舌打ちをした。五年前に『図書館』へ籠もってから今の今まで、碌に魔力の精密作業を行なっていなかったからだ。思うように魔力を操作できない。
身の危険を感じながら力を抜くと、銀の獣は紅の花弁に包まれる。
いいや、それは花弁ではない。炎だ。
炎は、レンの思う通りにその身を舞い踊らせる。そうしてまた姿を消した銀の獣にほんの一瞬、息を吐く。
「……目の前で失恋しちゃったかなァ」
状況にそぐわない呑気な声だった。
ウルの告白の話だろう。失恋に該当するのか? あれは。
(……というか、今背中を預けているこの男はアカに本気で惚れ込んでいたのか?)
イオンは呆れて、先ほどのレンよりもずっと長いため息を吐く。
「ともすれば犯罪だろ。」
「ンあ? どォゆう事だよ」
本気でわからない様子のレンに、何だか気が抜けてくる。……いや、この世では未だ少年愛が犯罪ではないというだけか。
ともあれ、花畑を移動されないように聖域の境界へ意識を集中し続けているイオンが、レンの気の抜けた声を多少心地よく思っているのは事実だった。
ウルのような〈原始の神々〉の存在に分け与えられた聖域は、許された者にしか開かれない。
五年前に一度足を踏み入れたイオンとレンは、その境界を察知することは出来ても、辿り着くことは出来ない。蜃気楼のようなものだ。
それを無理に繋げたのは紛う事なくイオンの力業によるものだった。教会図書館という聖域をぶつけ合うことで抜け穴を作ったようなもの。
一度はアーサーを助けるためにそんな無茶な行為をしたが、そう何度も使える手ではない。
「イオ、あとどれくらい保つ?」
姿を現した銀色の醜い獣の姿を認めてまた鎌を振り翳したレンは、ことのほか苦々しい表情で問う。
「お前の魔力が尽きる迄は保つ。肉体労働の方は知らん。」
「は、ナメんな」
一度目を離せばアーサーに追いつかれる恐れもある。
この極彩色の花畑が現れるために生まれる〈世界の法律〉の境界を、イオンはそれ以上の書き換えが行わないように操作していた。
レンの大雑把な魔力操作では位置を保つことはできない。それでいて常人が何千人集まろうと足りないほどの大きな魔力を必要とするため、イオンは不可能なレベルの深度でレンの魔力を操作している。
多大な集中力を問われる上にイオン本人の魔力も消耗する技術だ。それでも、やらなければならない。
——「大丈夫。俺がなんとかしてみるよ。」
五年前、力を持て余していたレンとアーサーが安全に森を歩けるよう、彼らの魔力を彼らの内に留めるよう、人知れず手助けしていた時のように。
「もしおまえが倒れたら、オレ様がお姫様抱っこしてやるよ。昔と配役逆にして逃走劇の再公演をしようぜ」
「何時 の事だよ。そんな風に抱えてやった記憶は一度たりとも無いが?」
「華麗な逃走劇だったろーが! 次に役立たずとして抱えられるのはてめェだ」
あぁ、花畑から逃げ出した時の事かとイオンは納得をする。レンに対して返事はしなかった。
華麗な逃走劇というにはあまりにも苦い思い出だ。
獣が姿を見せるたびに鎌を振るうレンの魔法は感嘆を漏らしてしまうほどに進歩している。彼のイメージは炎と相性が良い上、花畑はお誂え向きに鮮烈な紅の花が咲いていた。それは立ち上がる炎のようだ
詠唱もなく、片手間のように振るう魔法であれど威力は相当なものだろう。
それでも、アーサーを追おうとする獣の勢いは衰えることを知らなかった。
魔力で編み上げられた巨大な鎌が銀の獣の毛皮を断ち、考えられないほどの魔力が注ぎ込まれる。
「なァ、『こういうの』、意味ある?」
この獣が人とは一線を画す存在なら、レンは純度の高い魔力でねじ伏せられる。それはあの森に対しても、ウルにも効いた手段だ。
「殆ど効かないぞ。と言うか、此奴 は呪いが別の形で現れたに過ぎん。ウルが強く呪いを拒否した結果生まれた幻であって、銀狼の存在を侵す事は出来ない。」
「クソ! まじかぁ」
レンの非常識な所業——膨大な魔力による〈世界の法律〉への干渉も、自然現象で生まれた結果を少しだけ書き換えているに過ぎない。現実を変え続けることはできないということだ。
悪意を持って生み出された『呪い』などよりも持続性はない。
それは、空気中の水分を何倍も膨らませることができても、乾き切った土地から水を生み出したりはできないのと同じことだ。
だから、銀狼は〈神殺し〉でしか殺せない。
「アカちゃん、どーすっかな」
「……さあ。測り兼ねる。」
「ダメだったら死ぬしかないかな? あー、世界の果てまで逃がすって手もある?」
あっけらかんと言い放ったレンが銀の獣を蹴り上げた。そろそろ戦闘に抑揚がなくなって妙に単調でいて重労働でしかない作業になりつつあるらしい。
世界の果てまで逃がすという言葉がいまいち理解できなかったイオンが少し考え込む。逃げるとは、今相対している獣からだろうか。『アーサーとウルをこの獣が追ってこないところにまで逃がす』と言いたいのか。
(逃げられないから今対応しているんだけどな。)
イオンが納得したところで、ハッと大袈裟に驚いて見せたレンが頭を抱えだす。
慌てて開いた本のページを捲って襲いかかる銀の獣をいなしたところで、振り返ったレンはその美貌を惜しみなく歪めて深い紅の瞳を潤ませながらイオンの肩を掴んだ。
「愛の逃避行じゃん!? オレ、ますます勝ち目なくなるんじゃね!? ああーっ! チューしたら殴られるし! 殴られるし!!」
「その執着は早々に捨てた方がいい。殴るのは当然だ。あんな剣幕で突っ掛かったら、俺だって殴る」
そのとき、イオンはうっかり失言をした。
普通は『あんな剣幕』じゃなくても好きでもない奴にキスされたら殴るものだ。
「アカちゃんに、恋してるつもりはないっつーか、自覚はあるんだけどさ。メチャクチャにしたいんだよ。わかるだろ?」
イオンの失言に気が付かなかったレンに安心するやら、呆れるやら。
(十三歳の子供に欲情してどうする。わかってたまるか。)
雑談を挟みながら、イオンは考えていた。
ウルを殺すこと以外に銀狼を止められないのだとしても、ウルはアーサーに自分を殺すことを望んだりはしないのだろう。
ウルはもう、アーサーのことを知りすぎている。
——「誰かに求められるなら、アカはそれに応えようとする」
自分の言葉だ。それに対して、ウルはなんと返したか。
揺らいだ、泣きそうなほど悲痛な声で彼は「知っている」と言ったのだ。
都を出るウルを止める資格は、イオンにはなかった。
求めるものを与えようとするアーサーから逃げ続けていたのはイオンも同じだ。そばを離れることでアーサーが深く傷つくことを知ってはいたが、それと同じくらい、一緒にいることでアーサーを傷つけることを恐れていた。
——もっと言えば、そのまま放置すれば『銀狼』が人間を襲ってしまう瀬戸際に来ていることを知りながら、それほどまでに銀狼にかけられた呪いが根深いものだと知りながら、あの日の夜抜け出したウルを見逃した。アーサーに傷ついて欲しくはなかった。
アーサーが、ウルを見つけて何ができるのだろう。
その血筋以外何も特別ではない、アーサーが。イオンのように使命を帯びているわけでもない。レンのように生きているだけで道具扱いをされることもない。ウルのように〈原始の神々〉として、この平坦で不条理で辻褄の合わない運命を左右することもない。
ただ漫然と生きていれば、流されて、平凡に暮らすことのできる彼に一体何ができるのか。
それも、イオンには関係のないことだった。
アーサーがそれを望んでいる。それだけだ。望んでいるなら、その行動はきっと彼の心を満たすことなのだろう。あの時のように。イオンはそう願っている。
どこにも行けずに図書館の奥で時間を潰していたイオンの手を引いたのはあの親子だ。
家族でも、『本』でも、教会図書館でもなく、ローレンスはイオン自身の手を引き、アーサーは一緒に遊ぶことを願った。
それで何かが変わったわけではないが、それだけで十分だった。
何が正しいのかなんてわからない。ただ、やらなければならないことは知っている。
自分が望むことを精一杯やるだけだ。
——「誇りなさい、それは今のきみたちができる精一杯のことなのだから」
それだけで、俺たちは救われたんだから。
望むヒトなくして世界は存在しない。
しかし、世界は望むヒトが存在する限り、存在している。
だから憎くて、愛おしくて、許せなくて、恋しくて、堪らないんだ。
微かに感じる向かい風は、アーサーが走っているからではない。
その先にウルがいるからだ。
それはいつも手が頬に触れるたびにそよ風を感じるからだとか、ウルの姿を見失った時は風の向かう先か、風上にいるだとか。いつも通りの、根拠のない確信だ。
風の通り道があった。
全力でがむしゃらに走ってどこを目指せばいいのかなんてまるでわからずに花畑を飛び出して森を走り出したアーサーは、体内に回る毒のために鋭敏になった皮膚感覚でその風を捉えている。
いつもそうだった。風のように当たり前に存在していて、存在しなくても気がつかないほどに澄んでいる、切り取った風景の一部のような存在。
アーサーの神様はどんな神様なのか? そう問われたときのウルの様子を、懸命に思い出す。捉えた風を手放さないように、意識を集中させながら、暗闇でぬかるんだ森の落ち葉で足を滑らせながら。
教会図書館で聞いた、ウルの言葉を思い出す。アーサーの信仰を話した時だ。
「いつでも、近くにいるって信じられてる」
「……いつでも?」
驚いたように、控えめに問われたその声を覚えていた。
簡単に忘れそうになってしまうほどに自然で、静かで、微かなウルという存在の確かなゆらぎを、アーサーは覚えている。
助けを求めた言葉、春の空の色の瞳、「好き」だと言われた瞬間の、泣き縋りそうな声を、覚えている。
慈愛に満ちた神はいつでも人間を見守っている。ほんの些細な祈りとか、苦しみを聞いてくれる。誰にも言えない、言葉にならない苦しみでさえ、神様の元には平等に届く。
「なんだかみんなのお父さんみたいだ」
あの聖堂でだけ、ウルの存在は異質だった。不思議なほどに。それをどうしてだとか、今の今まで一瞬だって考えようともしなかった。
アーサーは思う。いつでも見守ってくれていることを「お父さんみたいだ」だと言ったあの言葉に、どれほどの恋しさが詰まっていたのだろうか。
ウルはあの大きな銀狼と存在を同じくするもので、ずっと森で暮らしていたという。求め合う友達も探せず、もう帰らないと知っている父親だけを自分の確証として持っていたウルのあの言葉に、一体どれほどの望みが詰まっていたのだろうか。
慈愛に満ちた神はいつでも人間を見守っている。
ほんの些細な祈りとか、苦しみを聞いてくれる。誰にも言えない、言葉にならない苦しみでさえ、神様の元には平等に届く。
けどそれは、アーサーやイオンらが信じる神の話だ。
だったらあいつは、——神は、一体誰に祈ればいいっていうんだろう。