Bamboooth

topimage
I was born to love you.

 あぁ、伝えなきゃ。大好きだって。

 ——初めて見た光景だった。

 音を奏でそうなまでの鮮明な橙色のエンジェルストランペットの花が、最初にアーサーの目に入った。

 次に見えたのは紫陽花と、血のように赤いリコリス。

 青のクレマチス。黄のラグウォート、キングサリ。色とりどりのアネモネ、チューリップ。深い紫のアコニタム、イヌサフラン。鮮やかなピンクのアデニウム。小振りで可憐な花をつけるオオゼリ。純白のクリスマスローズ、スズラン、カルミア……。

 毒の草花で覆われた花畑を見たことはあったが、そこに至る前は毎度ながら深い森のはずだった。

 だがどうだ、アーサーの目の前に広がるのは花木すらも含んだ極彩色の毒の楽園。いつも森を途切れさせて唐突に現れる花畑は見知らぬ草花を多く含んでいたが、今はアーサーが見知った花が数多くある。

 葉や花に触れないように、アーサーは赤い外套のフードを被る。

 歩を進めるたびに、見知った光景に近づいた。

 花木は草花に。名を知った花から知らない花へ。緩やかで停滞した空気は巻き上げる風となって空からは暖かな陽の光が降り注ぐ。開けた空間に出れば、それは五年間夢にまで見た光景。

 地面に広がり、風に舞う花々はどれもうつくしい色をしていた。

 立ち上がる炎の様に鮮烈な紅、燦然と輝く太陽の様に煌く金、遠く広がる海の様に深い蒼。天上にして極彩色の花畑。そこに架かる銀の虹。絶望的なまでに美しく他の存在を辞さないほど完成された光景。

「ウルっ‼」

 花の甘い匂いは脳の奥を溶かし尽くすような暴力的なものではなく、鼻腔を包むのはただ穏やかな花の香り。鮮明になった視界と、思考に溢れた感情と、声に押し流された理性が、アーサーの体を突き動かして、見つけた少年の体を抱きしめる。

「……アーサー?」

 そよ風のように軽やかで穏やかないつもの声が、ほんの少しだけ揺れていた。

 ウルは驚いたように何度か長い睫毛を瞬かせて、アーサーの血のように鮮やかな赤色の瞳を認めた後、その体を突き放した。

 治癒魔法でできるのはせいぜいが表層をつなぎ合わせるだけだ。傷が開く痛みに体を強張らせて地面に尻をついても、あのけだものが居た花畑のように毒花の棘は刺さらない。

「どうしてここに来たの? 今日は、招き入れてないよ」

「おまえを探して来たんだよ」

「出てってよ」

「逃げるなよ。ウル」

「……いつ殺されるかもわかんないのに、一緒に居るなんて怖くて嫌なことだよね」

「下手な嘘つくなって。最初に殺せって言ったのはおまえの方だろうが」

 眉を吊り上げてらしくない言葉で威嚇するウルに、アーサーはゆっくりと手を差し伸べる。

 怯えるようにびくりと身を縮ませた動きがとても痛ましく思えた。

「それと、友達付き合いもわかってなさすぎ。世間知らずのおまえが、ケンカをそんなに簡単なものだと思ってるんなら、おまえは一度編み物でもしてみるべきだ」

 ——絡まったら結構戻さなきゃなんねえから。

 穏やかに声をかけ続ける。区切った言葉の続きを口にはしない。

 その意味を問うてくれることをどこかで望んでいたし、教えたいとも思った。けれどウルは問いを投げ返さなかった。

「狼を、殺してくれって言ったよな」

「父さんはもう殺したでしょ」

「けど、おまえはまだ苦しんでる。狼のせいで、ウルは苦しんでるだろ」

 ウルは銀狼だ。ウルの父親が暴走したときに、間違いなく、彼自身が言ったのだから。アーサーの体を蝕んでいた毒がウルを見つけた瞬間消え去って、視界と思考に明瞭さを取り戻したことでそれは確信に変わった。

 花畑の主は毒の影響を受けない。それどころか、この常世とは思えないほど美しく毒々しい庭を、ただの美しい花畑に変えてしまう。

「……狼なんか、忘れてればいいんだよ」

「なに?」

「おれが、都に出たから騒ぎになってただけで。……おれがこの花畑から出なければ、変化は緩やかだったはずなんだ。少しずつ世界の法律が変わって、少しずつ常識が変わるだけで、人はこの世界が呪われていることにも気が付かない」

「気が付かない、って」

「それが当たり前になるって事だよ。……『銀狼』は気が触れていて、人間を食べてしまう。そんな恐ろしい化け物なんだって、みんなが知るだけ」

 それは、正気を失った彼の父親のように? 先ほど出会ったあの銀の獣のように? ウルはこの広い花畑にたった一人で、そんな当たり前が来るのを待つのだろうか。

 たとえ気が狂ったとしても、ウルが、人を傷つけることを当たり前だと思うことがあるのだろうか。

「〈神殺し〉が銀狼を殺せるからって、きみ自身にはなんの関係もない」

 ——だから?

「きみはどうせ悲しむくせにさ、役割に縛られるなんて馬鹿げてるよ。猟師なんて向いてないんだから。わざわざ狼を殺さなくったっていいんだよ」

 ——だからなんだというのだろうか。

「おまえはどう思うんだ?」

「え?」

 銀色の瞳が長い前髪の下で瞬いた。

 ——「お前は人間を食べる狼の役に向いているのか」。

 違う、そんなことを問いたいわけではない。

「おまえは誰に祈るんだ」

「おれは、祈らないよ。誰にも」

「下手な嘘をつくなって、俺はずっと言ってる。俺だろ、俺に祈ったんだ。おまえは」

「そんなこと、ない」

 銀狼だからなんだ。呪いがなんだ。神殺しがなんだ。俺が悲しむからなんだ。最初からそうだった。傷つき続けるほうがよっぽど辛いのに、悲しみを避けようとする。

 どうしてウルはいつもひとに優しいのに、自分が大切にされて、守られてもいいことを忘れてしまうんだろう。

「だったらなんで俺に『助けて』なんて言った。なんで、『好き』だなんて言った!」

 気がつけば、声を荒げて叫んでいた。

「そ、れは、」

 ウルが答えあぐねるように視線を落とす。覗き込もうとしても、その瞳にアーサーの赤色は映り込まず、視線は逸らされた。

「アーサーが、……初めて手を引いてくれたんだ」

 助けてと請われた言葉の意味をどれだけ理解していたかなんて、最初からわかっていなかった。

 父親がおかしくなって、森の奥で暮らしていて頼れる相手も居なかったウルが最初に求めたのは〈神殺し〉だ。

 ウルとアーサーをつなぐものなんて、最初から役割しかなかった。

 ウルの父親を殺したことについて、ウルからそれが救いだったとどれだけ言われても、やはりアーサーは所詮、ただ殺しただけだと思っていた。

 ——狩りと同じだ。神から平等に、アーサー自身にもいつか与えられるはずの死を、己のために、傲慢にも押し付けただけなのだと。

「花畑の外に出るなんて、思いもしなかったのに、きみは簡単におれを連れ出した。外を探検してもいいんだって、当たり前みたいに」

 ただ、それだけ。

 微かにウルの口がそう動いた。アーサーがそう思いこんだだけなのかもしれない。ただ、そんなふうに思ってそうだとは考えていた。

 彼が好きだと言った言葉の意味をどれほどアーサー自身が捉えられているのかなんてわからなかった。

 父親がいなくなって、その亡骸も存在しなくて、頼れるヒトが居なくて、寄りかかって一緒に泣いてもらえるヒトが居なくて、自分が存在している必要なんてどこにもない。

 使命感に駆られて生きるしかないと思い込むのだ。ウルのように役割と、その自覚があれば尚更。

 逃げて、明日と今を見つめないように、過去にしか存在しないと思ってる自分の在り処に縋るしかない。ウルにとっては、父親だけが自分を認めてくれる相手だったのだから。

 ——アーサーにとってのローレンスが死んだ極彩色の花畑、ウルにとっての銀狼という『役割』。

「……たった、それだけだよ」

 それだけという言葉はやはり音にならずに口に出していたらしい。もう一度、言い聞かせるようにつぶやかれた言葉に、やはり彼は孤独だったのだろうと思った。

 過去に縋るしかなかった者が、ほとんど知らないような相手に「助けて」も「好き」も、簡単に言えるわけがないことは、アーサー自身よく知っている。

「俺もだよ」

「……なにが?」

「ウルが初めて、俺の手を引いたんだよ。ずっと一人ぼっちだったんだ。……おまえをまた森に置いて行きたくないんだよ」

 そこで、初めてウルの体は弛緩した。

 花畑に座り込んで、アーサーもそれに合わせて腰を下ろした。

「どうしよう、アーサー」

 緊張感のあった声が緩んで、溢れ出す。

 銀の瞳は揺らいでその色を二転三転とさせ、春の空のような青の瞳は溢れ出した泉のように涙を溜める。

 張り詰めていた呼吸を急に自然のものへと取り戻したように、風が色とりどりの花弁を舞い上げた。

「止まらないんだ。あいつ、銀色の、おれじゃない、なにかがずっと暴れてる。どうしよう、怖いんだ。カルムもよくしてくれたのに、ケーキ屋さんも、八百屋さんも、散髪や服屋さんも、魔法具の職人さんも、いろんな人と友達になれたのに……」

「うん」

「どうしておれはひとりなんだろ……、って」

 気がつけば、アーサーはウルのことを抱きしめていた。肩口に体重がかけられるのがわかる。

 知らなかった。自分よりも少し年上に見えるとはいえ、ウルもただの子供だったんだと、アーサーは思う。

 摺り寄せられた髪の毛が頬に当たってくすぐったい。感じる体温は人間と全く同じもので、鎖骨を伝って流れてくる涙は当たり前にただの人間で、ただの子供と同じものだ。

「おまえ、死ぬのかもしれないけど。……今の俺ができる、精一杯のことをする。ゆるして、くれるかな」

 生きて。生きて、誰も傷つけないようにたった一人で逃げ続けるなんて、きっとそれが一番辛い。だからアーサーは追いかける。二度と手放さないように。

 ウルからの言葉はなかった。こくりと小さく縦に首が動いたのをアーサーは確認する。

 ハンティングナイフを取り出して、アーサーは自分の腕の皮膚に刃を滑らせる。

 緊張して力がこもってしまったのか、思いの外深く入ったらしい傷から溢れた血がどくどくと脈打った。

 アーサーにはこれしか手段が思い浮かばなかったし、悲しいし、怖いけれど、傷つき続けるウルに解放してやる方法なんかこれしか思いつかなかったのだ。

 子供らしい短絡的な思考だと自分で思うが、それでも長い間振り回されながら使っていた力だ。現行の魔法で手を入れられない決闘由来の魔術がいかに長い影響を及ぼすのかは、身をもってよく知っている。

 泣きやんだらしいウルが地面に手をついて、ポツリと話した。

「アーサーはおれのために死んでくれる?」

 覚悟を決めたところで唐突になにを言い出すのかとアーサーが小首を傾げれば、ウルの手はそよ風のように柔らかくアーサーの頬に触れる。心中でもしようってのか。

「まっぴらごめんだ」

「あはは! そっかぁ」

「そーだよ。けど墓参りくらいはしてやる。おまえに祈ってやってもいい」

「一神教の神様は嫉妬深いよ? 地獄に落ちちゃうかも」

「おまえが居ないなら天国でも地獄でも一緒だよ。……もう黙ってろ」

 キョトンと見開かれた銀の双眸がアーサーを見つめた。きれいなシルバーの色がこぼれ落ちてしまうのではないかとほんの少し心配もしたが、それは杞憂だ。

 ウルは目を細めて微笑みかける。春の空の色はどこにかき消えてしまったのか。

「バカ狼、一回しか言わねえからよく聞けよ」

「なに?」

 アーサーは気恥ずかしさに俯いて、ウルの胸板を指差した。

 たじろぎながらも返事をしたウルはその宣言どおり狼の耳をピンと張ってアーサーの声を聞いていた。

「おまえと一緒かはわかんねえよ。けど、そよ風みたいにどっか行くから目を離せないし、むかつくし、イラつくし、けど安心して、優しくて、暖かくて、」

 腕を伝う血を口に含んで、アーサーはその血液に魔力を集中させた。自分の体に魔力を流すのと同じように。

 それは自分の血だから、簡単なことだった。

 地面に落ちた血液が極彩色の毒の花々を赤一色に染め上げる。

 指差していた手を広げて胸板を押し込むと、ウルの体は簡単に花畑に倒れ込んだ。銀の瞳に映り込んだ空は薄く広がって煌めく、白に近い青だ。

 アーサーはウルの体を跨いで、左の指を絡めとって草花の間に押さえつけた。

「おまえの好きは、俺にちゃんと届いてる」

「あ、」

 アーサー、と呼び掛けようとしたのだろう。続きは音にならなかった。

 触れ合う唇の熱さに、アーサーはなにがなんだか分からなくて、恐る恐る舌を差し込んで、口の中に含んでいた自分の血液をウルの口に流し込む。

「ウル、おまえのことが、」

 巻き上げるような風が吹いて花畑に花弁が広がった。

「……毒を砂糖に、砂糖を毒に。——『満たせ』

 どうなるのかなんて分からなかった。詠唱に意味はない。そこには祈りしか存在しない。

 かち合った瞳は片方は銀で、片方は春の空の青だ。指を絡めていなかった方の手が愛おしげに伸ばされて、震えたその指が髪を梳くのを心地よく思った。

 瞼を下ろすと、肩に伸ばされた腕が体を引きつけて、一度離した唇がもう一度触れ合う。

 薄いガラスを踏みつけているような、かわいたなにかを握り潰すような、軽くて硬質な音がいくつも重なってアーサーの背で響いていた。

 熱をもった口内に舌を差し入れると、自分の血の味がして変な感じだった。鼻腔に広がるのは、それまで脳の奥にまで届いていた毒の花畑の香りではなく鉄の匂いだった。

 唾液と血を混ぜ合わせていると、肩に伸ばされた腕から力が抜けて、少しずつ動きが緩慢になってくるウルに途方もない恐怖を感じる。

 自分からくちづけた唇を離そうとは思えなかった。閉じた目を開くのが怖かった。

 もう、なんの体温も感じない。瞼の向こうには降り注ぐ陽の光ではなく薄雲に覆われたぼんやりとした光が広がっている。

「アカちゃん‼」

「アカ!」

 それぞれがそれぞれの呼び名でアーサーを呼びかけて、その声に振り返ると、そこは都の郊外だった。

 薄雲のかかった蒼穹に、あれからどれほどの時間が経ったのかなんてまるで想像つかない。整地された芝生の上に座り込んでいたらしいアーサーは、駆け寄る年上の友達二人に対して、なにを言えばいいのか分からなかった。

「無事か? 解毒は、……とりあえず薬屋を呼んでおかないと。それと水」

 ほうけた様子のアーサーに対して毒が抜けきっていないのだろうと判断したらしいイオンはレンに呼びかける。

 レンが立ち上がろうとしたところで、アーサーはその服の裾を掴んだ。

「いなくならないで」

 瞳孔を拡げたまま平坦に呟いた声は、不安定に揺れている。

「……わかってるよ。大丈夫。心配しないで、アカちゃん」

 昔のような、穏やかな口調に戻って申し訳なさそうに微笑むレンが、指輪がいくつもついた細い指でアーサーの蜂蜜色の髪を梳くように撫でた。

 見上げた紅はあまりにも闇に近く深い。ウルの浅瀬で乱反射する光のような春の空の青とは全く違う色。

 か細く伝えた願いは、誰に伝えようとしたのだろうか。

 アーサーの耳に声が響いた。

 穏やかで、微かで、風のような、意識しなければ聞きのがしてしまうような声だった。

「花畑を、探したいんだ。カラフルな、毒の花畑」

 伸ばした手が今にも振り払われてしまうんじゃないかと怯えていた。それでも求めなければいけない。探さなければならない。

「聞こえるんだ。声が、……」

 アーサーはそれを望んでいた。

 レンに目配せをされたイオンは、仕方がないなといった様子でため息をつく。

 イオンは地べたで座ったままのアーサーの目の前にしゃがみ込んで、両の手でアーサーの頬を包み込んだ。

「イオン、俺、行かなきゃ。……ウルが待ってる」

 アーサーの皮膚の感覚を確認するように、その次は目、その次は喉を見て、少しの間思案に耽った後、あの日のように悪戯っぽく笑う。

「俺たちが一緒に行かないなんて言ってないだろ?」

 ほっと息をついたレンが先行して、イオンは力の抜けきったアーサーの体を背に抱えた。腕の傷を申し訳程度に巻いた包帯にはすでに血が滲み出していた。多少力加減を失敗したとはいえ、血が止まっていないことから推察すると、それほど時間は経っていないと考えられる。

 アーサーたちは、整地されていない草むらへ入り込む。

 木々の間を縫って、頭の中に描いた森の地形と同じ道を通る、五年前、アーサーの夢に出てきた道の通りに足を進めた。

 じめじめと湿った森の空気に、脳を溶かす毒の匂いが混じる。

 甘い花の匂いだけではない。毒の気配を感じ取った瞬間、ふわりと漂った風はウルの力ではなく、レンの魔法によるものだった。

 木々に覆われ、薄暗い森を時計の針が回り切るほど歩いて抜けたアーサーらの眼前に広がったのは、立ち上がる炎の様に鮮烈な紅、燦然と輝く太陽の様に煌く金、遠く広がる海の様に深い蒼。伝承通りの、極彩色の花畑だった。

 この森の奥で強い光が差しているというのに、それまで地面を覆っていた木々の影は不自然なほど途切れ、大地を照らしている。

 アーサーはイオンの背から降り、一面に広がる花畑を見渡した。視線は、同じ場所へ行き来を繰り返す。

 声が聞こえた。間違いない。

 確かにウルは捉えどころのない風のような雰囲気で、神経を研ぎ澄まさなければ触れられないほどに穏やかなものだが、探そうとして見つからないものではない。

 そして何よりも、その毒の花畑には皮膚を裂く棘の蔦が散見される。

「ウル!」

 力の入らない体で、腹の底から思い切り叫んだ。レンの魔法によって操作されていた風がアーサーの激しい動きに対応できず、花の匂いが鼻腔を刺激した。

(あれ?)

 アーサーは疑問を抱く。深く沈み込むような甘ったるい毒の匂いではなく、想定よりも軽やかな花のものだ。

「……レン。風、一瞬でいいから解いてくれ」

「あン? 危ねェとおもーけど」

「早く!」

 レンが気の無い返事をして指を鳴らすと、甘い香りがアーサーの喉の奥にまで広がる。

 それでも、頭の片隅が痛んだり、視界がぐらついたりはしなかった。

 その毒の花畑に散見される棘はアーサーのブーツを引き裂いたりはしない。知っていた。決まっている。『そういうふうにできている』。

 アーサーは傷が痛むのも忘れてその場から駆け出す。もう間違いない。

「見つけた! ウルっ!」

「こんにちは、赤ずきんさん。……なんちゃって」

 アーサーの姿を認めたウルは微笑んだ。花の散り始めに新緑を揺らすそよ風のような、捉え所のない美しい笑みだ。

 喜びに身を包まれてアーサーは年相応に無邪気な笑顔を溢れさせてウルに抱きつく。勢いのままに花畑に座り込んだウルは、アーサーの蜂蜜色の髪を撫でつけた。

 美しい銀の髪、全てを写し込む銀の左目、春の空のような青の右目。完成された美貌でありながら、そのバランスの取れた造形にほんの少しの不自然さを抱かせる青色の光は、どこまでも柔らかい。

「おれね、本当は純粋な銀狼じゃないんだ」

 見上げれば、以前よりもほんの少し色を深くしたような気がする青の瞳と視線が結ばれる。

「おれのお母さん、人間だったから。だから魔力も使えるし、……たぶん、こうやって、生きてる」

「なんだって良いよ。おまえが一人じゃないなら、なんだって良い」

 触れ合った指が一つずつ絡み合う。

 額同士をくっつけて、呼吸と互いの睫毛のくすぐったさに笑い合った。

「俺は、一人が平気じゃなくて、俺がおまえに会いたいから。何回でも探すよ」

「うん。ありがと、アーサー」

 指を絡めあったまま花畑の中心で座り込んで、もう一度触れるだけのキスをした。

 二人でじっと風に耳をそば立てていると、背後からわざとらしく立てられた咳払いにアーサーはびくりと反応する。

 ほんの十数歩うしろには、気まずそうにこめかみを揉むイオンと、顔をしかめたレンの顔が目に入った。

「そういうのは他人の居ないタイミングでだな……。」

「オレの失恋は!? 誰がケアしてくれんの!」

「言ってろ。」

 アーサーはこみ上げてくる羞恥心に顔が熱を持つのを感じる。慌ててウルの手を振り解いてイオンの元へ駆け寄ると、今度はレンが拳を握って花畑の中へと足を踏み入れた。

「くっそウルてめェ、オレと勝負だ! オレ様が勝ったらアカちゃんはもらうからな!」

 よくわからない剣幕でレンがウルを指差した。ウルのものになった覚えもないが、勝手に売買されても困る。イオンは面白がるように眺めるだけだった。

「そういうところだぞ、レン」

「俺の意志は?」

 なんだか、数日前に見たような空気だ。

「……ええっと、どうしようか?」

 困ったふうにアーサーへ視線を向けるウルは、騒ぎ立てるレンを確実に面白がっているだけだ。

 アーサーはそれまでの事が、なんとなくばかばかしく思えてきた。ファーストキスの話題の時はあんなに焦っていたくせになんだこの余裕は。むかつくな。

「一緒のベッドで寝るんだ!」

 なんだそれくらいのことか。ほっと胸を撫で下ろすと、首を傾げてイオンが口を挟む。

「アカをメチャクチャにしたいんじゃなかったのか? 襲うんだろう?」

「そうだけど! 今言うな!」

「めちゃくちゃ⁉ 聞いてないよ!」

 爆弾発言に驚いたウルが驚いて立ち上がる。

 アーサーも立ち上がりたかったが、あまりの下らなさに笑いが込み上げてきて、気が抜けてしまう。

 もう意識を保っているのもやっとだったことを、アーサーは地面に倒れ込んでから思い出した。