Bamboooth

topimage
My beloved U.

 夜明けの穏やかな光が、小さな庭に植えられた木の葉の映し出しながらカーテン越しに注いでいる。

 陽の光によって温められた部屋の空気は浮上しかかった意識をそのまま揺蕩わせるが、足元で揺らめく柔らかな毛並みがみじろぎをしたことに気がついて、アーサーはその意識を沈ませることなく柔らかいシーツを擦りながら起き上がった。

 あくびをこぼし、アーサーはうすぼんやりとした意識のまま、朝の空気を感じる。

「おい起きろ、ばか狼」

「うべっ」

 足を蹴り出すと、想定よりもずっとベッドの端で眠っていたらしいウルは情けない声を上げてカーペット貼りの床に頭を落とした。

 耳とか普通の人間より飛び出してるし、うっかり切れたりしそうで少し怖い。

 あとで見てやるかと思いつつあくびをこぼして、アーサーはクローゼットから適当な服を取り出した。

 キッチンに出て並べ立てられた同じ様な大きさの紅茶缶からラベルも見ずに適当なものを手に取り、水瓶に溜まった水を鍋へ移し替えて湯を沸かす。替えたばかりで出力の安定した魔鉱石式の食品炉が、鍋とフライパンを温めていた。

 大きなフライパンにベーコン、ソーセージとハッシュドポテトを二つずつ投げ入れる。昨晩作っておいたベイクド・ビーンズを軽く火にかけて温めていると、ウルがパントリーからトマトとレタスをキッチンへと運んでくる。

 ウルが当たり前と言った顔をして家に居ることは以前と何も変わらないというのに、なんとなく違う気がする朝はいつもどこか気恥ずかしい。

「……おはよ」

「おはよう、アーサー」

 誤魔化すように大きな音を立てて割った卵がフライパンに飛び込み、残りの三つの卵も割り入れた。水を注いで蓋を閉じると、ウルは古ぼけたティーセットを手に取り、窓際のテーブルへとそれらを運びながら機嫌良く尻尾を振った。

 アーサーはソファの背もたれにかけっぱなしになっているタオルケットを手に取って洗濯カゴに突っ込んだところで、そろそろ良い具合になっているはずのフライパンから四つの目玉焼きを、二つのプレートへ分け入れる。

「えーと。……平和だね?」

 やっと覚えたらしい紅茶の淹れ方を間違えないかと目を光らせていると、ウルはアーサーに視線を合わせて、しみじみと声を上げた。

「あんな騒動、何度もあってたまるかよ」

 硬いパンで頭を殴ると、「暴力はんたーい」とか「食べ物を粗末にしちゃいけないんだー」とか適当な抗議の声が上がる。

「それでアーサー、今日からニワトリにでも転職するつもりなの?」

 他人の作った朝食をおいしそうに頬張りながら、ウルは暗に朝が早すぎると遠回しに皮肉った。野生の狼は薄明薄暮性……つまりは早朝に動き出す動物のはずだが、ともあれまだ眠りたかったことは事実なのだろう。

 ウルはあくびを噛み殺しながら、紅茶へ二杯の砂糖と少しのミルクを注ぐ。

「バカ狼。朝から出ないとレンがまたひっついて来るだろ」

「え、何? 二人でデート⁉ ちょっと先に言ってよ! 服とかなんにもないじゃん!」

「女子か」

 わざとらしく体をくねらせて、冗談なのか本気なのか掴みづらい微妙なボケにアーサーは間髪入れずに思ったことを口にした。

 キョトンと目を見開いて驚いたウルの様子に、普段の甘い様子からすれば本気で言っていても不思議じゃないなとため息を吐きかけたところで、ウルは眉を跳ね上げ、挑発的に微笑んだ。

「デートは否定しないんだね?」

 アーサーは本気で顔をしかめた。

 ——詰まるところ、それは本当にデートと言って差し支えないものだった。アーサーに直接そんなこと言ったらまた照れ隠しで殴られそうだから、言わないけれど。

 花畑に行きたいというのがアーサーの要望だ。

 当然、ウルはそれを受け入れて、なんなら手を繋いで森を歩いた。

 空間を無理に捻じ曲げる必要もない。ウルからしてみれば〈毒の花畑〉へたどり着くのは特に大変なことでもないし、招き入れないと決めてしまえばどれだけ尾行されてもレンは花畑にたどり着くことすらできなくなるのだが、それは黙っておくことにした。

 単に「二人になりたい」とウルに伝えるのを憚って早く出たという可能性もあるが、ウルはその考えを半ば無意識に否定する。方向音痴のレンが森を一人で彷徨ったところで聖域の場所に関係なく、どこにもたどり着けなさそうだというのは明確な事実だ。

 何度訪れても花畑の景色を前に目を輝かせるアーサーの表情を見るのは嫌いじゃない。

「……この花畑、」

「うん?」

「毒の花畑なんだよな」

「そうだよ。まあ、知らない花もあるだろうし……口に入れなきゃ大丈夫~みたいなのも、実は結構あるんだけど」

 とは口にしつつも、色とりどりの花を咲かせるこの花畑の毒を、ウル自身が感じたことはない。

 強いて言えば花畑を離れている間に、そこにいた生物が気がつけば泡を吹いて死んでいたなんて経験がいくつかある程度のものだ。

 主人が居ない時には万人を拒む神聖な場所。

「あの青い釣鐘の花は? どこにあるんだ」

「ないよ」

 花畑の極彩色を観察していたアーサーは、驚いたように顔を上げる。

 ウルの父親——ルドルフがアーサーの前に姿を現した時にあの自然公園に咲いた毒の花のことを指していることは明白だった。

 それはこの花畑に存在しない。

「なんで? 昔は森に咲いてたって聞くよ。なら、此処にあっても、」

「無いよ」

 あってもおかしくないんじゃないか。アーサーが口に出す前にウルは強く言い切った。

「探したけど、一輪も咲いてない。この世のどこにも」

 普段ならもう少し上手くごまかすであろう答え方に、アーサーは怪訝な顔をする。

 ウル自身、どうしてアーサーの言葉を遮るように断言してしまったのだろうかと不思議に思った。

「あのブルーベルが何なんだ? 何を怯えてる?」

「なにも。もう怖いことなんてなにもないよ。アーサーが救ってくれたんでしょう?」

「けど、時々すごく遠くを見つめてる」

 からかっているとは思えないアーサーの言葉にウルは顎に手を当てて考え込んだ。

 そんなこと、あっただろうか。

 血のように赤く鮮明な瞳がウルを見上げていた。目線一つどころか数個ぶん違う視線は、見下ろさなければ合いはしない。 

 視線を下ろさないウルに痺れを切らしたアーサーがウルの足を払って地べたに転がす。

「う、わっ」

 猟銃の銃口は向けられず、しかし確実にウルの腹へ重い木製のグリップが落とし込まれた。

「いつかそいつも見つけよう」

「そいつも」と並列されるのはウルのことを指しているのだろうか。「いつか」というか、ウル自身は既に見つかっている。

 それにしても、逃れる気はそもそもないとはいえ、どうにもアーサーからは逃れられなさそうだと、ウルは思わず笑った。

「……ふふ。トレジャーハンターだね」

「おまえも一緒だぞ。元々はおまえの標的なんだから」

「おれの?」

 ウルは思わず問い返す。森の猟師であるアーサーを皮肉った言葉だったのだが、存外真面目に返された言葉に驚いた。

 元々はウルの標的。そう彼は言ったか。

 猟銃のグリップを腹に落とし込んで見下ろしたままの赤い双眸をウルは見上げた。

「探したんだろ? 求めるものは追いかけなきゃ捕まらない。相手から勝手に飛び込んでくるなんて思うなよ、ばか狼」

 なるほど。

「さすが、先輩は言うことが違うね」

 それもそうだ。

 ——探したけど一輪も咲いていない花。

 先ほど、ウルは確かにそう言った。一度は探したのだとアーサーは判断した。

 ウルがその花を見たいのかは、ウル自身わからなかった。ずっと求めているような気もするし、もう二度と見たくないような気もする。複雑な心境だ。

 花畑に座り込んだウルは、立ったまま自分を見下ろしていたアーサーの腕を引っ張った。

 服が伸びるのも気にせずにアーサーの服の裾を掴み、慌てて身を屈めるアーサーの肩に腕を回して口付ける。

 驚いたように声を上げて赤くなるアーサーの表情と、飛んでこなかった彼の拳に気分をよくして、ウルは頑なに閉じた唇を控えめに舐め上げた。

 縺れるように地面に転がった二人は、花々を押しのけて花畑に体を並べて寝転んだ。草花の茎や葉をクッションのように曲げることに遠慮するアーサーの体をそっと支えて、彼の気が病まない程度に丈夫な花のもとへ下ろす。

 長い前髪は地べたに広がって、ウルが隠すようになった銀の左目も顕になっていた。アーサーの赤い瞳は左右の異なる色を持つウルの双眸とかち合う。

 睫毛が触れ合うほど近く、互いの呼吸を感じるほどに近かった。

「……ねえ、あの時の続きは?」

「え?」

「おれがアーサーって呼ぶのを遮ってまで名前を呼んだでしょ。祈りを口にする前に何か言おうとしてた」

 想像はつくが確証はない。態度が確証だと言われてしまえばそれまでだが、ウルはアーサーの口からその言葉を一度も聞いていなかった。

 赤く爛々と光る宝石のような瞳がまんまるに見開かれて、その後、視線はすぐにウルから逸らされる。

 アーサーはレンが拗ねたときと同じように口を尖らせかけたが、互いに呼吸を感じるほどに近い距離で見つめあっていたことで触れ合った唇にますます顔を赤くして、左右に唇を引き結ぶ。

「……いやだ」

「名前の後に続く言葉は、言ってくれないの?」

 後ろに身を引いて逃げ出してしまいそうな様子のアーサーに、ウルは肩に回した腕に力を込める。求めるものは追いかけなきゃ捕まらないと言ったのはアーサーだった。

 押し黙ってしまったアーサーにウルは苦笑する。顔を赤くして押し黙るなんてそれこそ察してくれと言っているようなものだし、ウルが出かける前に口にした冗談よりもよほど恋する乙女のような反応だ。

 長くて、それでいて短く感じる沈黙が流れた。風に揺れる草花の音と甘い花の匂いが鼻腔を埋め尽くしていた。

「ねえ、アーサー。好きだよ」

「……知ってる」

 ポツリと、呟くようにアーサーは口を開いた。

「ずっと知ってる」

「うん」

 逸らされ続けた視線はいつの間にかアーサーの蜂蜜色の頭ごとウルの胸元に抱え込まれていた。ウル自身がそうしたのか、アーサーが潜り込んだのかは定かではない。

「怖かったんだ。おまえに『好きだ』って最初に言われた時、俺になにができるんだろうって。おまえが見てる俺は、ただ偶然おまえからよく見えてるだけで本当はなんにもできない奴なのに、なにも与えられない奴なのにって。……すごく、嬉しくて、そんな資格ないのにって」

「うん。なんとなく、……想像はつくよ」

 相変わらずなにもできないと言うアーサーに、ウルは「そんなことないのに」という言葉を飲み込んだ。

 ウルがどう思っていようと関係ない。これはアーサーの中で、そうあったというだけの話だ。

「五年前、レンもイオンもいなくなった時。『追いかけるな』なんて一度も言われてないけど、言われてなくても追いかけることはできなかったよ」

「……」

「追いかけて欲しいけどさ、それはきっとどっちも疲れるから。どっちも求めてるなら、伸ばした手を取らなくちゃならないんだと、思う」

「うん。そうだね」

 ウルは抱きしめる腕をほんの少し緩めた。

 すると、アーサーはウルの胸元に触れていた額を離して、造形の良いウルの頬を包み込む。もぞもぞと這い上がって合わせた視線は見下ろしも見上げもしなかった。

 血の様に赤い瞳がウルを見つめていた。ウルの左にある銀の瞳には爛々と輝くその赤色がそのままの色で写り込み、右の青の瞳は色を混じり合わせて、その色を薄い紫色のようにも思わせた。紫苑の花の色だ。

「俺も好きだ、おまえのこと。確証なんてないけど、いま俺は、そう思ってる」

 安心したようにくしゃりと笑ったウルに、アーサーは口付ける。

 血の味はしないし、鉄の匂いが鼻腔を満たしたりはしなかった。

 膝同士がぶつかり合うのも気にせずに体を寄せ合った。舌に触れて、呼吸を絡める。皮膚の表層が痺れるような、妙な感覚が頭の隅に反響する。

 その間も視線だけは逸らずにいた。

 ウルリーケ・ブルーベルは毒を持つ花。

 ほかのブルーベルを根絶やしにして生まれた、毒の花。

 三千年前に世界中を彩ったのよ。すごくロマンチックだとは思わない?

 恋しいと思うことの、何がいけなかったのかしら。

「……あのさァ、別にさ。てめェらが? どこでイチャイチャしてよォと? 構わねェよ。オレ様とイオは二人で居るわけだし。な?」

 レンは、わざとらしく隣に座るイオンに声をかけた。

 正座だった。いや、実際のところ正座はしていなかったのだが。

 ユニオンホールを訪れてカルムに時間を確認したところでアーサーとウルの背筋は凍りつき、大ラウンジの上、三階に当たる吹き抜けへ至りソファでふんぞり返るレンを見た瞬間に気分だけは正座をした。

 すらりと伸びた長く細い脚は七センチはあろうかという高いヒールのついた編み上げのブーツで彩られており、全身のあらゆるところに掛かっている魔法具の銀細工はどれも一級品の技術で細工されたものだと、一目見てもわかる。

 砂糖が溶け切らずにサリサリと音を立てるスプーンをかき回しているのは白く細いガラス細工のような指。その指には無骨で装飾的な指輪がいくつもついている。

 ——あぁ、美人って本気で怒ると怖いんだ!

 ウルは本気で思った。自身がレンとは負けず劣らず『造形が良い』自覚はあったし、レンはことあるごとに機嫌を損ねるのでそう思ったことは一度たりともなかったのだが、今日は違う。少なくとも今現在、ウルはそう思っている。

 きめ細やかな白磁の肌も、深い闇を思わせる艶やかな黒髪も、長い睫毛に縁取られた鮮やかで深い、暁紅を思わせる紅の瞳も、その全てが怒りを告げてくるようだ。

「けどさァ、それで遅刻するのは今日じゃなくてもよかったんじゃねーかなってオレは思うワケ」

「ごもっともです……」

 二人は声を揃えて言った。

「まさか復活したての友情すら裏切られるとは思わねーじゃん? 思わねーだろ。フツウ思わねーんだわ。じゃ、何? オレはなんでイオと二人寂しくココの掃除しなきゃなんなかったんだろーな」

「すみません……」

 こちらも声を揃えて言った。イオンだけはその様子を平然と見守っている。

 二人で散々見つめ合った後、結局のところ夜明けとともに目を覚まし朝から森を歩いたアーサーとウルは花畑の中心でぐっすり眠っていたのだった。早起きの弊害である。

 予定よりも大幅に遅れてユニオンホールにたどり着いたあと、もしかしたらまだ昼過ぎなんじゃないかと一縷の希望を持ってカルムに聞けば「アフターヌーンティーはいかがです?」なんて言われた。午後四時。

 大ラウンジの上階、三階にあたる部分の『秘密基地』の掃除をしようと言い出したのはウルであり、その秘密基地の存在を場所を教えたのはアーサーだった。

 昼から集まってウルの不格好なサンドウィッチを食べてから掃除をすると約束していたのだ。

「失恋明けに! なんでその相手二人がイチャイチャしてる間にオレ様が寂しい思いしながら掃除しなきゃなんなかったワケ?」

 つまるところ、アーサーとウルが予定をすっぽかした。その一言でこの話は終わる。

 イオンは欠伸を噛み殺しながら吹き抜けの階下——大ラウンジへと視線を向けた。

 レンはいつものように怒鳴り散らしているわけでもないが、彼の声はよく通るし存在感がある。それは強者の資格であって何も悪いことはないのだが、吹き抜けを通り越してラウンジにまで声が届いていそうだった。

「レン、声を抑えろ。お前の名誉の為に」

「あ? うっせェ!」

「怒るのは結構な事だが、 五月蝿いのはお前だ。」

 レンに合わせて紅茶を入れていたイオンが質の良いカップを手に、品良く紅茶の水色を鑑賞する。

「その、お詫びと言ってはなんですが……」

 思わず敬語になりながら、ウルはバスケットを取り出した。約束していたサンドウィッチだ。ウルの隣に座っていたアーサーも、苦い顔をしながらもう一つの籠を取り出す。中にはアーサーお手製のレモンドリズルケーキが入っていた。

 レンがバスケットを受け取り中身を確認する。レンが絆されたように「しょうがねェな」とため息をついたことで吹き抜けの張り詰めた空気は元に戻る。これで手打ちというわけだ。

 アーサーとウルの正座は解除された。もともと正座はしていなかったのだが。

 ユニオンの売れっ子魔法士であるレンが失恋をしたという噂は、その後一週間世間を騒がせることとなった。

 求めよ、然らば与えられん。

 尋ねよ、然らば見出さん。

 門を叩け、然らば開かれん。

 全て求むる者は得、尋ぬる者は見出し、門を叩く者は開かるる。

「誇りなさい、それは今のきみたちができる精一杯のことなのだから」